このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
旅のあれこれ
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文 学
柳原極堂ゆかりの地
慶応3年(1867年)2月11日、伊予国温泉郡北京町(現:松山市二番町)に生まれる。
明治16年(1883年)、正岡子規と謀って松山中学を中退し上京。
明治22年(1889年)、松山に戻り海南新聞社に入社。
明治28年(1895年)9月20日、子規は漱石の愚陀佛庵で療養していたが、この日はじめて散歩に出た。極堂が一緒だった。
『散策集』
明治30年(1897年)1月、極堂は松山で俳誌『ホトトギス』創刊。
明治三十年一月・柳原極堂、松山に「ほとゝぎす」を發刊す。祝句。
時雨木枯のあれあれて生れ出しもの
『贈答句集』
昭和元年(1926年)3月10日、
子規堂
を設置。
昭和8年(1933年)、2月6日、正宗寺失火、子規堂類焼。
昭和9年(1934年)、飯坂温泉、仙台、
松島
に遊ぶ。
昭和10年(1935年)9月14日、子規堂再建。
昭和15年(1940年)2月15日、道後湯之町放生池畔に
「
春風やふね伊豫に寄りて道後の湯
」の句碑を建立。
昭和20年(1945年)7月26日、空襲により子規堂焼失。
昭和20年(1945年)、柳原極堂は
洗心庵
址観音堂に仮寓。
洗心庵二句
老松にあやかり住むや老の冬
時雨るゝも晴るゝも庵の一つ松
『草雲雀』
(「日記」より)
昭和21年(1946年)12月19日、子規堂を建設。
子規堂再建
堂再建芽吹かん木々は皆燒けて
『草雲雀』
(「日記」より)
昭和25年(1950年)7月1日、中西月龍は
極堂の句碑
を建立。
月に佇つ我に月見の人往来
昭和26年(1951年)9月19日、松山市役所にて子規居士五十年祭。
子規居士五十年祭
感無量まだ生きて居て子規祭る
『草雲雀』
(「日記」より)
昭和28年(1953年)4月26日、道後公会堂にて米寿の祝賀会。
米壽祝賀會自祝
手のひらにいたゞく春の光哉
『草雲雀』
(「日記」より)
昭和29年(1954年)、句集
『草雲雀』
を刊行。
昭和32年(1957年)10月7日、90歳で没。
神の國みづほの久にや秋祭
川之江八幡神社(愛媛県四国中央市)
いつまでも忘れじ秋のこの旅を
滝の宮公園(愛媛県新居浜市)
分け往けば道はありけりすゝき原
萩すゝき一系千代子のすがたかな
合田氏宅(愛媛県新居浜市)
春風やふね伊豫に寄りて道後の湯
閑林園(愛媛県松山市)
柿の木に鶯鳴くや石手村
石手寺の塔が見えをり野茨道
秋川邸(愛媛県松山市)
春風やふね伊豫に寄りて道後の湯
道後温泉(愛媛県松山市)
湯の町の見えて石手へ遍路道
俳句の道(愛媛県松山市)
城山や筍のびし垣の上
萬翠荘(愛媛県松山市)
我春や佛心生じ鬼心消ゆ
法龍寺(愛媛県松山市)
正宗寺
(愛媛県松山市)
花に来て寺の田楽よばれけり
龍穏寺
(愛媛県松山市)
吾生ハへちまのつるの行き處
井手神社(愛媛県松山市)
月に佇つ我に月見の人往来
観月庵句碑庭園(愛媛県松山市)
村上霽月邸跡
(愛媛県松山市)
吹可れ来て鴉の下里し野分哉
義農神社(愛媛県伊予郡松前町)
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