このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
洗心庵跡
〜亀水塚〜
伊予鉄道高浜線港山駅下車。三津の渡しに向って歩くと、途中に「洗心庵跡」の碑があった。
昭和20年(1945年)、
柳原極堂
は洗心庵址観音堂に仮寓。
洗心庵二句
老松にあやかり住むや老の冬
時雨るゝも晴るゝも庵の一つ松
『草雲雀』
(「日記」より)
「洗心庵跡」の説明が書いてあった。
小林一茶と洗心庵
寛政7年(1795年)1月15日、俳諧師
小林一茶
は33才のとき松山に来遊し
栗田樗堂
の二畳庵を訪い、又魚文かたにて素堂・芭蕉翁・其角の三福対を拝して
「正風の三尊見たり梅の宿」と詠む(勝山町に句碑あり)
また16日桜道後温泉の辺りに遊び
「寝ころんで蝶泊まらせる外湯哉」と詠んでいる。
20日ばかり松山に滞在した一茶は、2月5日三津浜の方十亭を後にし、9日小深里(現在の港山町)の洗心庵に俳友を集めて句会を催し、
汲みて知るぬるみに昔なつかしや
にな蟹と成て女嫌れな
山やく山火と成りて火の暮るゝ哉
梅の月一枚のこす雨戸哉(寛政7年西国紀行より)
なお洗心庵は徳川中期より代々尼僧がすんでいた尼寺であったが、明治5年太政官布告の廃仏毀釈により廃寺となった。(このあたり洗心庵の跡地)
角田造船所裏の細い道を行くと、小さな祠がある。
祠の前に亀水塚があった。
笠を舗
(しい)
て手を入てしるかめの水 芭蕉
寛政5年(1793年)芭蕉百回忌に、芭蕉筆蹟と称する懐紙を塚の下に埋め句碑を建立した。翌々年の寛政7年(1795年)2月9日小林一茶が句会を催したところは、小深里の洗心庵と判明した。
一茶は「汲みて知るぬるみに昔なつかしや」と“かめの水”にちなんだ句を「寛政紀行」に残した。
この地にあった不動の松呼ばれる老松と(枯死)は、当時すでに200年を超えていたと思われる。
松山市教育委員会
『俳句の里 松山』
『諸国翁墳記』
に「
亀水塚 伊豫松山三津濱 某等 笠を敷て手をいれてしる亀の水
」とある。
『芭蕉翁句解参考』 には「
諸国翁墳集に見へたり
」とある。
出典未詳の
存義
句である。
今年の旅日記
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください