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2019年の旅日記

観月庵句碑庭園〜碑巡り〜
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伊予鉄道高浜線 松山市駅


港山駅へ。

伊予鉄道高浜線沿いに遺跡観月庵句碑庭園がある。

遺跡観月庵句碑庭園(遺跡中西邸庭園)

昭和24年(1949年)〜昭和40年(1965年)の15年余りをかけ、元松山市議会議長中西月龍氏(市議会議員中西智氏の父)により整備されました。

邸内には11基の句碑と御製の歌碑、御詠歌碑、集合句碑各1基があります。

さらに、観月山と呼ばれている山麓には茶室等の数多くの建造物があり、それらを総称して観月庵といわれています。

 昭和27年(1952年)9月、中西月龍は 松山駅前 に富安風生の句碑を建立。

 昭和29年(1954年)3月、高野山に登り、普賢院において森寛紹を師僧として得度する。

 昭和30年(1955年)5月、風生庵新築。

花ざかり男ざかりをたのしみに   風生

森薫花壇の句碑


すいすいと風のあとよ里松落葉

明治24年(1891年)、森薫花壇は松山に生まれる。

明治41年(1908年)、 碧梧桐 門下として俳句を始める。

昭和7年(1932年)、 富安風生 を選者に迎えて「糸瓜」を創刊。

昭和23年(1948年)、富安風生は森薫花壇を訪れている。

昭和41年(1966年)5月15日、富安風生の句碑除幕。

昭和51年(1976年)3月6日、84歳で死去。

集合句碑


 富安風生の句「山道の掃いてあり多る初詣」を中心に観月庵句会の俳人15名の句を連ねた碑である。

正岡子規の句碑


十一人一人になりて秋の暮

『寒山落木 巻四』 (明治二十八年 秋)に収録。

明治28年(1895年)10月12日、正岡子規の送別会で詠まれた句。

この句の碑は 「汽船乗り場」 にもある。

中西月龍の句碑


春風はなれぬ法衣の袖をふく

柳原極堂 の句碑


月に佇つ我に月見の人往来

「八十四叟極堂」とある。

昭和25年(1950年)7月1日、建立。

正岡子規の句碑


賑かに暮るゝ日もあり庵の秋

出典は未詳。

昭和25年(1950年)、柳原極堂の頼みにより建立。極堂書。

富安風生の句碑


石鎚の嶮に廂す月の庵

昭和24年(1949年)9月、風生が観月庵に立ち寄った時に詠まれた句。

昭和24年(1949年)11月15日、建立。

全国で2番目の風生句碑である。

富安風生の句碑


この宿尓汝もあ万え鳴く雨蛙

昭和27年(1952年)5月、 道後温泉「ふなや」 で詠まれた句。『晩涼』所収。

昭和41年(1966年)5月15日、除幕。

「糸瓜」300号を記念して森薫花壇が建立。

全国で27番目の風生句碑である。

月龍碑


山門の左久らにあげし月まどか

昭和54年(1979年)4月2日、中西智建立。

富安風生の句碑


藤垂れたりこの御佛にま多まみゆ

昭和27年(1952年)5月、観月庵で詠まれた句。

昭和28年(1953年)5月、除幕。

   庭内に別にまたわが句碑成れり。全く思ひ設けぬことなりし

寿詞(よごと)のなかにわが名読まるる枇杷青し

『晩涼』

全国で7番目の風生句碑である。

池山浩山人の句碑


鳴子引けば全山能露さかだちに

浩山人は『ホトトギス』『若葉』同人。

富安風生の句碑


端座して四恩を懐う松の花

 『古稀春風』(昭和30年)に「月龍庵主わがために風生庵を新築」と前書きがある。

昭和32年(1957年)3月10日、建立。

全国で13番目の風生句碑である。

中西月龍の句碑


大月夜あげてかへらぬひととなる

昭和32年(1957年)7月7日、柳原極堂は90歳で没した。

その追悼句である。

 昭和40年(1965年)、風生は観月庵を訪れる。

   松山行。観月庵山荘。山内処々に庵。風生庵もその一つ。

或る庵は筍藪の中にあり

   風生庵に泊るは十二年目。覚えある苗木の楓、のびたけて門を
   かばへり

待ちてくれねぎらひくれて若楓

『傘寿以後』

 昭和42年(1967年)4月、月龍は64歳で逝去。

 昭和44年(1969年)9月、風生は月龍の墓参に訪れている。

   三津浜、観月庵 ・月竜氏の墓に詣づ 二句

浜木綿の実の逞しく主亡し

手をとられたる思出の磑の秋

『米寿前』

三津駅の方が近かった。



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