このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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道灌山〜西日暮里公園〜

JR西日暮里駅の西の高台に西日暮里公園がある。


道灌山


安藤広重「江戸百景」

 道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。安政3年(1856年)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里4丁目付近にその名が記されています。この公園を含む台地上に広がる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていました。

 道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道灌が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた 太田道灌 が出城を造ったなどの伝承があります。ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたと言われています。

 道灌山・ひぐらしの里は、荒川区内で最も古い歴史をもつ所です。このあたりから出土した土器や、貝塚・住居址などは、縄文時代から数千年にわたって人々の営みが続けられたことを物語っています。  道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。道灌山の大半は秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望できたといいます。また薬草が豊富で、多くの採集者が訪れました。ひぐらしの里では、寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようでした。

桃さくら鯛より酒のさかなには


   みところ多き日くらしの里
    十返舎一九

  雪見寺(浄光寺)月見寺(本行寺) 、花見寺(妙隆寺<現在は廃寺>・修性院・青雲寺)、諏訪台の花見、道灌山の虫聴きなど、長谷川雪旦や安藤広重ら著名な絵師の画題となり、今日にその作品が伝えられています。

 明治時代、 正岡子規 も道灌山・ひぐらしの里あたりをめぐり、『道灌山』という紀行文を著しました。

山も無き武蔵野の原をながめけり


    車立てたる道灌山の上
   子規

 昭和48年、ここ西日暮里公園が開園し、区民の憩いの場となっています。

『江戸名所図会』(道灌山聽蟲)に其角の句がある。

まくり手に松むしさがす浅茅哉


天明元年(1781年)、 太田南畝 は道灌山の船繋松を見ている。

 太田金吾の船繋松あり。桑田碧海手のうらをかへせるがごとし。

「日ぐらしのにき」

大川立砂 は船繋松を句に詠んでいる。

   道灌山船繋松にて

跡垂て繋ぐや松に月の船


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