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俳 人

大川立砂・斗囿

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 大川立砂は松戸市馬橋の人、大川平右衛門。糸瓜坊。別号栢日庵(はくじつあん)。屋号は油平。今日庵 森田元夢 の高弟。

安永6年(1777年)、『歳旦帖』。

   品川の芭蕉庵に春を迎て

舟々や春立渡る千松島
   今日庵

 天明2年(1782年)8月、栢日庵の庵号を得て立机。 はいかいまつの色』 (立砂編)。 素丸 序。 野逸 跋。

東京ベイ信金馬橋支店の前に 栢日庵立砂の居宅跡 がある。



一茶は立砂の許に奉公しながら俳諧の道に入ったという伝承がある。

 栢日庵は、この道入り始めてよりのちなみにして、交り他とことなれり。

「挽歌」

 天明7年(1787年)、落柿舎の 重厚 が立砂を訪れ、重厚が20年の旅行中に芭蕉の発句を拾い集めた手牌を立砂に与えた。

 寛政3年(1791年)3月26日、一茶は江戸を発ち、出郷してから初めて柏原に帰る。29歳の時である。まっすぐ柏原に向かうわけではなく、その日は馬橋に泊まる。

 白き笠かぶ[るを生]涯のはれとし、竹の杖つくを一期のほまれとして、ことし寛政三年三月廿六[日]、江戸をうしろになして、おぼつかなくも立出る。小田の蛙は春しり顔に騒ぎ、木末の月は有明にかすみて、忽(たちまち)旅めくありさま也。

雉鳴[て梅に]乞食の世也けり

   其日は馬橋□□□□□泊。

『寛政三年紀行』(3月)

立砂は一茶に餞別四十疋を贈る。

なりはひを語て帰る鍬に笠

雲行はやき志賀の黄昏(たそがれ)

   四十疋

行春の用意共なれ破紙衣(やれかみこ)

「渭浜庵留別文」

 寛政4年(1792年)、 蕉翁百回追遠集』 (一峨 編)刊。自序。大川立砂序。 森田元夢 跋。

    道灌山 船繋松にて

跡垂て繋ぐや松に月の船
   立砂

道灌山


 寛政7年(1795年)6月、 露白 は芭蕉の句碑を建立。斗囿もかかわっていたようである。

赤々と日はつれなくも秋の風

 天下の名湯草津町の 草津ホテル 前庭に、カサをかぶった尺角の石柱が立つ。彫りの深い筆太の字で、正面に芭蕉翁碑前、右側に寛政七卯歳六月、左側に下総松戸斗囿 、米二と割書してあるが、斗囿は一茶の親友で「一茶翁文通」の編者秋本氏。こうした著名人の御前立に威儀を正した本尊鷺白建立芭蕉塚の得意思うべしである。惜しいことに同町数次の大火が首碑を焼いて副碑だけを残したのは皮肉。元禄2年『卯辰集』の句。

『上毛芭蕉塚』(本多夏彦著)

 寛政7年(1795年)、芭蕉百回忌記念に 『もとの水』重厚 編)を上梓。

 寛政8年(1796年)、元夢は馬橋の立砂亭で剃髪。

 寛政10年(1798年)10月、大川立砂とともに真間の手児奈霊堂から 弘法寺 に紅葉狩りにやって来た。

夕暮の頭巾へ拾ふ紅葉哉
立砂
紅葉ゝや爺はへし折子はひろふ
一茶

弘法寺に句碑がある。


真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉

 寛政十年十月十日ごろ、二人てこな・つぎ橋あたりを見巡りしときのこと也。

真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉

生残り生残りたる寒さかな


 寛政11年(1799年)の春、大川立砂は甲斐・越路に旅立つ一茶を見送った。

 一茶は3月の末、いまだ踏みのこしたる甲斐がねや三越路(みこしぢ)の荒磯(ありそ)(さかまくら)旅立てば、主は竹の花まで見送り給ひぬ。

今さらに別れともなし春霞
一茶
又の花見も命なりけり
立砂

と、かりそめに絃ひ捨てられしが、その愁情の閑寂かかるべき前表なるか。

 しばしして見かへれば、いまだかなたに休らひます老の影の、しきりにものなつかしけり。

「挽歌」

その年の11月2日、一茶は立砂と再会し、立砂の臨終に巡り合わせた。

 それより夏秋も過ぐるまで、やゝ隣国をさまよひ、思はずこの里に来りて、すこやかなる再会を祝ひ、はた半時も病の顔を守る事は、誠に仏の引き合せなるか、いかなるえにしなるか。

炉のはたやよべの笑ひがいとまごひ

「挽歌」

 立砂の師 元夢 は立砂に跡を託そうとしていたようで、悔やみの言葉を残している。

 立砂居士に我が無き跡たのまんとたのミしに思はず身まからせ給ふ。今更おくればしに恥て、

長生の我が身うらめし雪仏

立砂は法王山 万満寺 に葬られる。

法王山万満寺


 立砂没後、立砂の子斗囿(とゆう)が家業油屋とともに俳業も継承して一茶を後援し続けた。

 文化元年(1804年)10月10日、一茶は馬橋に入り、翌11日流山へ。

   十日 晴 馬橋ニ入

   十一日 晴 流山ニ入

『文化句帖』(文化元年2月)

 文化8年(1811年)5月11日、一茶は斗囿を訪れるが留守だったので、流山へ。

   十一日 晴 流山ニ入

『文化句帖』(文化8年5月)

流山から斗囿に手紙を出す。

 今日わざわざ参上候へども、折あしく候間、流山に参り候。されば流山より二十冊参り候哉。

 一 源語 三

   則、松本のうり上ともに、しんじ候。

 一 隆達とすみれ二冊 しん上仕候。

 一 外二冊は、御覧のゝち、御返し可被下候。

 右申入度、早々かしく。

   五月十一日

一茶

 とゆ(い)うさま

 「源語」は『源氏物語』。「隆達」は 巣兆 編『はいかい隆たつ』。「すみれ」は春甫編 『菫草』

同年9月10日、一茶は松戸から舟で市川へ。斗囿と共に江戸に入る。

   十 晴 松戸ヨリ舟 市川ヨリ上ル 斗囿同道 ヱドニ入

『七番日記』(文化8年9月)

同年11月2日、一茶は立砂の13回忌の法要に巡り合わせる。

   二 朝陰 巳刻ヨリ晴 馬橋ニ入 立砂十三回忌

   十三忌

来もきたり抑けふの霜の花

『七番日記』(文化8年11月)

 されば立砂翁と今は此世をへだてたれど、我魂の彼土(かのど)にゆきゝしてしりけるにや、又仏の呼よせ給ふにや十三廻忌といふけふ、はからずも巡り来ぬることのふしぎさに、そゞろに袖をしぼりぬ。

何として忘ませうぞかれ芒(すすき)



   法莚の夕がたなれば、

此時雨なぜおそいとや鳴烏

冬木立むかしむかしの音すなり

松蒔(まい)て十三年の時雨かな

木がらしや是は仏の二日月


千葉県市川市の 葛飾八幡宮 に句碑がある。

一茶の句碑


冬木立むかしむかしの音すなり

同年12月22日、一茶は馬橋から布川へ。

斗囿は一茶に南鐐(なんりょう)銀一片四百文を歳暮として渡す。

   廿二 晴 大西吹 布川ニ入 斗囿南一片四百文歳暮

『七番日記』(文化8年12月)

南鐐銀は二朱銀の異称。長方形の銀貨幣で、1両の8分の1。

 文化9年(1812年)9月27日、一茶は馬橋に入り、 一堂 の五七忌に参列。

   廿七 晴 馬橋ニ入 一堂卅五日法莚

『七番日記』(文化9年9月)

同年10月26日、一茶は 千住 から馬橋へ。

   廿六 晴 千住ヨリ馬橋ニ入

『七番日記』(文化9年10月)

翌27日、 秋元双樹 が亡くなる。

 文化10年(1813年)正月、菩提寺 明専寺 住職の調停で異母弟仙六との間の遺産問題が解決して、一茶は故郷柏原に定住するが、その後も斗囿(とゆう)との交流は続く。一茶が書き送った手紙が斗囿編「一茶文集」として残されている。

 文化11年(1814年)3月、一茶が斗囿に宛てた書き送った手紙がある。

 私も漸此世の人に相成申候、四、五月ごろにも相成候はゞ、一世一代がてら参り申度、先それ迄と申残候、かしく。

此やうな末世をさくらだらけ哉

有様は我も花よりだん子哉

 文化14年(1817年)2月4日、一茶は馬橋に入る。斗囿から百文を得た。

   四 晴 マバシニ入 百文得大川

『七番日記』(文化14年2月)

同年6月11日、一茶は房総最後の旅で馬橋を訪れた。

   [十]一 晴 マバシニ入

『七番日記』(文化14年6月)

 6月27日、一茶は江戸を発ち、7月4日に柏原に帰着。これを最後に一茶は江戸を訪れることはなかったが、斗囿へ手紙は続く。

 文政3年(1820年)12月、一茶は斗囿に手紙を出している。

 小人も十月十六日に、淡雪の浅野の途中にて辷り転ぶと等しく、中風起り、五里の道も駕にて庵に乗り込、とみに大根おろしのしぼり汁にて、半身不遂(随)は癒候へども、いまだもとのごとくの足に成かね候。

   病中俳諧寺のていたらく

袵形(おくびなり)に吹込雪やまくら元

斗囿あて書簡(文政3年12月)

 10月16日、一茶は浅野の雪道で滑って転び、同時に 中風 が起こったようである。

 文政4年(1821年)2月5日、一茶は斗囿に手紙を出し、 月船 の消息を尋ねている。

  忍ばずが岡 の龜ども、人に口明て菓子ねだる有様を見るに、此苦の娑婆に萬年の逗留さぞ退屈ならめと、

永日を喰ふやくはずや池の龜   一茶

などゝ指を噛むばかりに候。

二白、布川月船、折ふし句なども御聞被成候哉。今日庵迄舊とし申越し候へども、いまだ返事もなく、何とぞ風の便もあらば、御聞可下候様願上候。舊友一入なつかしく被存候。

斗囿あて書簡(文政4年2月)

文政10年(1827年)11月19日、一茶没す。

天保4年(1833年)10月18日、斗囿没す。

立砂と同じく法王山 万満寺 に葬られた。

斗囿の追善句会の句が残されている。

斗囿居士の墓前にぬかつきて

かれ色や仏達には留主もなき   八巣

 八巣は 桜井蕉雨 の号であるが、蕉雨は文政12年(1829年)5月7日に55才で亡くなっている。

八巣二世の八巣謝堂であろう。

 弘化2年(1845年)10月17日、 八巣謝堂 は斗囿の十三回忌に訪れている。

   斗囿仏十三回日くれて詣

霜の声もつまで居らん墓の前

「飄々斎先生訪ねるの記」

 親子二代にわたって一茶を擁護した大川家も今では絶え、墓も整理されてしまったそうだ。

一茶関係の資料は西村家で引き継ぎ保存されているという。

立砂の句

   日本橋

霞もる蓬莱城や日本橋

   品川

海苔取りよ礒に置なば砂付かん

   大磯

持ふるす杖のひかりや西行忌

   小田原

笑ひ合ふ夕立晴れや二子山


干網の風に聳て遠がすみ


くだら野やソヨゲる松の一トかへり


月花の骨と成たるはせをかな


鍬かけて長閑にしたる榎かな


何故に一ッ残るや小田の雁


斗囿の句

涼しさや芦のうごかす浮御堂


蛙なくあなたや葛西二合半


涼しさや芦の動かす浮御堂


夏山や日和さだめぬ温泉(ゆ)のけぶり


山ぶきや草にかくれて又そよぐ


岩角に鹿のあを(ふ)むくしぐれ哉


ひとなみの戸口をもては秋の風


   大坂にて

四ツ橋やひとつ踏でもほとゝぎす


入らぬ木の花も咲く也春ぞとて


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