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俳 人

加藤野逸

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 本名加藤富右衛門勝照。小幡の石漱の弟。江戸薬研堀の旗本。 素丸 の高弟で、其日庵四世を継いだ。

同(本所) 御蔵屋敷内 加藤富右衛門 其日庵野逸


 享保8年(1723年)、野逸生まれる。

 宝暦2年(1752年)、素丸から素丈の号を授かり、江戸浜町の素丸邸に住む。

 明和6年(1769年)4月15日、 田中千梅 は江戸深川で没。享年84歳。

   追悼

常ならぬ風や誘ふて落松葉

『なつぼうず』

 天明2年(1782年)8月、栢日庵の庵号を得て立机。 はいかいまつの色』立砂 編)。 素丸 序。野逸 跋。

 寛政2年(1790年)、泥山馬光居士五十回追福を営む。

鋸山の 日本寺 に長谷川馬光の句碑を建立。素丸の筆だそうだ。



引きおろす鋸山の霞かな

同年4月1日、碑の除幕式が行われ、一茶も列席した。

記念集 『霞の碑』 刊行。其日庵野逸 序。

 同年、 素丸 『秋顔子』刊行。野逸 は序を書いている。

 寛政11年(1799年)、一茶は野逸に手紙を出している。

廿二日也
一すりもの入 赤岩素花 其日庵 に出ス


大島稲荷神社 に芭蕉の句碑がある。

 大島稲荷神社 にあった愛宕山大嶋寺勝智院の第九世住職栄順法印は野逸 に師事。

女木塚句碑


秋に添て行はや末ハ小松川

建立年は不明。

女木塚句碑の裏には「其日菴社中造立」と書いてある。

  『諸国翁墳記』 に「女木塚 東武葛飾郡小名木沢勝智院建 野逸社中」とある。

『其日庵歳旦』(寛政11年刊)に一茶の句が収録されている。

叱らるゝ人うらましや年の暮

享和2年(1802年)、白芹は野逸 の後其日庵五世となる。

廿四 晴 送野逸

   大桜さらに風まけなかりけり

『文化句帖』(文化3年7月)

 文化3年(1806年)9月9日、小林一茶は其日庵四世野逸と 葛西神社 の祭礼を見に行った。

午刻ばかりに金町に至る。

   艸花に汁鍋けぶる祭かな

『文化句帖補遺』

文化4年(1806年)1月15日、野逸80歳で没。翌16日、 常泉寺 で葬儀。

常泉寺


十五日 晴 北風  祗兵 と梅屋敷ニ入 十兵衛息年礼 野逸死ス

十六日 晴 昨十五日野逸死 今日葬小梅浄心(常泉)寺 金令会出莚

『文化句帖』(文化4年正月)

1月30日、一茶は来たる17日に常泉寺で野逸の追善句会があることを知る。

卅日 晴 野逸追善会来ル十七日常心(泉)寺有よし 左桜 来ル

『文化句帖』(文化4年正月)

野逸の句

朝がすみ麥引立て晴にけり


夕顔の俤みたり七霜忌


納豆の糸引く夜半やはつ氷


笛に寄るものなら待し時鳥


さつはりと唯一ツ葉や更衣


寒のあく音とこそ聞け雉子声


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