このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

俳 人

森田元夢

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別号、安袋。今日庵。

可都里 『名録帖』 に「安袋橘町三丁目 今日庵」とある。

 享保12年(1727年)、布川に生まれる。

 元文4年(1739年)、13歳の時に其日庵二世 長谷川馬光 に師事。

 寛延4年(1751年)、馬光が亡くなると 竹阿 に兄事。

 明和7年(1770年)に竹阿が関西に移ると、其日庵三世 溝口素丸 に師事したという。

 明和8年(1771年)、江戸に出て今日庵を再興。45歳の時である。

 天明2年(1782年)秋、今日庵元夢の後見で桐生の 八坂神社 境内に芭蕉の句碑を建立。


すし塀に明ほの高し桐の華

 天明5年(1785年)頃、小林一茶は今日庵森田元夢の門人となったらしい。

 天明7年(1787年)、 『もとの水』重厚 撰)刊。安袋跋。

 天明8年(1788年)、 『俳諧五十三駅』 刊。

 寛政元年(1789年)正月、一茶は今日庵森田元夢の執筆を勤める。

振り替る柳の色や雨あがり   今日庵執筆菊明

『柳の友』

日本橋久松町の 松井 、田川の 岩橋一白 も元夢の門人。

 寛政4年(1792年)、 蕉翁百回追遠集』 (一峨 編)刊。自序。 大川立砂 序。森田元夢跋。

大川立砂 は、元夢の高弟。

 寛政5年(1793年)10月12日、中阿坊朴そう 芭蕉の句碑 を建立。今日庵元夢 書。



梅か香にのつと日の出る山路かな

 寛政5年(1793年)10月12日、芭蕉百年忌に春日菴南道は成田市滑川の 龍正院 に芭蕉の句碑を建立。記念集 『夢の花』 刊。今日庵元夢序。

 寛政8年(1796年)、元夢は馬橋の立砂亭で剃髪。

 寛政11年(1799年)11月2日、立砂没す。元夢は立砂に跡を託そうとしていたようで、悔やみの言葉を残している。

 立砂居士に我が無き跡たのまんとたのミしに思はず身まからせ給ふ。今更おくればしに恥て、

長生の我が身うらめし雪仏

翌寛政12年(1800年)7月2日、森田元夢は74歳で没す。

 文化元年(1804年)、芭蕉忌を期して今日庵元夢の門人藤風庵可長 、松朧庵探翠、方閑斎 一堂 、避賢亭幾来、本土寺三十九世仙松斎一鄒は松戸市の 本土寺 に「翁の碑」を建立。

「翁の碑」


文化3年(1806年)7月2日、 多田薬師 で元夢七年忌。

   二日 元夢七年忌 多太(田)薬師ニ有

浅々の蕣(あさがほ)好やけふも咲

『文化句帖』(文化3年7月)

文化9年(1812年)、元夢の十三回忌に一峨は今日庵を再興。

本土寺 に今日庵元夢の句碑がある。



世は夢のみな通ひ路か梅の花

元夢の句

木の間もる月をちからか啼蛙

六月の花や蚊ひとつ郭公


岩間岩間鑢目附てかすみ哉


木に百は栢の不易や雪の墳


夕顔やほのぼの見ゆる相(間)の宿


姿見に紅梅のちる風情かな


水の色は水にもどるや秋の風


名月やむしろ一牧淡路島


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