このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

正岡子規の句碑


灯のともる雨夜の桜しつか也

北上市九年橋に雷神社がある。


雷神社


雷神社境内に正岡子規の句碑があった。


灯のともる雨夜の桜しつか也

子規直筆の短冊の文字が刻まれている。

立碑の縁由

 正岡子規、明治26年8月17日(旧7月6日)湯本温泉より黒沢尻にいたり、伊勢屋(豊田家いまの東京屋の地)へ投宿、その夜は七夕の前夜祭、新町雷社まで散策、稲光ときどき雨も降りだす。

 翌日は終日雨止まずついに逗留、新體詩に凝る宿の青年玉萩と隣の青年俳人志水(佐藤吉治)と楽しく俳談、子規は色紙に一句を認め志水へのこす。

 63年を経て黒沢尻も北上市となり、本年5月およそ5万5千人に発展、新幹線停車駅となる。

 時に有志遺墨の句を拡大して刻み、当時宿の町はずれにありし雷社(いまこの地に移る)の境内へ建立す。(新幹線初発の記念日)

昭和57年6月23日

玉萩長男勝介書
82才

『寒山落木 巻二』(明治二十六年 春)に「灯のともる雨夜の桜いぢらしや」の句がある。

黒沢尻は『はて知らずの記』最後の宿泊地である。

 十七日の朝は枕上の塒(ねぐら)の中より声高かく明けはじめぬ。半ば腕車の力を借りてひたすらに和賀川に従ふて下る。こゝより杉名畑に至る六七里の間山迫りて河急に樹緑にして水青し。風光絶佳雅趣掬すべく誠に近国無比の勝地なり。三里一直線の坦途を一走りに黒沢尻に達す。家々の檐端には皆七夕竹を立つ。此日陰暦七月六日なり。

 十八日旅宿に留まる。けふは七夕といふに風雨烈しく吹きすさみて天地惨憺たり。

 十九日曇天。小雨折り折り来る。

   秋の蠅二尺のうちを立ち去らず


19日午後、子規は水沢に赴き、夜汽車で 東京 に向かう。

 嘉永5年(1852年)3月13日、吉田松陰は黒沢尻に泊まっている。

黒澤尻に至りしに、和川の雪水、方に漲り舟を通すべからざるを以て、ここに宿す。


14日、吉田松陰は 鬼柳 へ。

 昭和29年(1954年)4月1日、黒沢尻町は飯豊村、二子村、更木村、鬼柳村、相去村、福岡村と合併し、北上市となった。

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