このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

石田波郷


『江東歳時記』を歩く

小岩2丁目善養寺で

抽んでて辛夷の白や植木市

  篠崎浅間神社 から江戸川に沿って篠崎街道を歩くと、江戸川病院の手前に善養寺がある。


善養寺仁王門


左に植木市の旗が見える。

真言宗豊山派 の寺である。

 永正6年(1509年)、柴屋軒 宗長 は善養寺を訪れている。

翌日、市川といふわたしの折ふし、雪風吹きてしばし休らふ間に、向ひの里に言ひ合はする人ありて、馬ども乗りもて来て、やがて舟渡りして、葦の枯れ葉の雪をうち払ひ、善養寺といふに落ち着きぬ。


善養寺に「影向(ようごう)の松」がある。

善養寺「影向の松」


善養寺影向(ようごう)の松

 高さ約8メートルの黒松で、地上約1.8メートル程で枝分かれし、円形に広がって屋根状を呈しており、枝張りの直径は約28メートルにも及ぶ。善養寺には、この地をはうような影向のマツと共に樹高30メートルをこす「星降りの松」が対をなしていたが、こちらは昭和初期に枯死している。

 昭和32年(1957年)3月28日、石田波郷 は3日間つづく植木市の仲の日に善養寺を訪れた。

 毎年3月27、8、9の3日間つづく善養寺の植木市の仲の日である。善養寺には「星住山」の山号に由来する「影向(ようごう)の松」は巨きく地上にはっており、「むじな磬(けい)」「袖かけ松」など伝説のマーケットといわれる程物語が多い。足利時代の開山だそうだ。

 境内を埋めた植木の間を、縁日のような人出だ。絆纏姿の日焼けした植木屋が埼玉弁で客を呼ぶ。安行から来たのだ。

「神武以来売れない市だよ、昨日2,000円の椿が1本売れただけだ」

 この植木市にも伝説があって、江戸時代からつづいているが、ある年植木屋が星降りの松に住んでいた白蛇(はくじゃ)を殺したところ一天にわかにかきくもって、それ以来植木市には必ず雨が降るようになったという。「雨の植木市」である。

「こういい天気だとヒヤカシばかり多くって木をいためられていけねえ。雨なら木のためにもよし、買わねえ者は来ねえからナイ」

 植木屋からみた雨の功徳である。林立する植木の間に、椿、桃、梅、辛夷(こぶし)の花が誇らかに花を見せ、大小の鉢、草花、球根に至るまで、植木の大祭典であり、4月1日から始まる緑の週間の前奏曲である。

 家に帰ったら、伝説にたがわず夕方から雨になった。

抽んでて辛夷の白や植木市

『江東歳時記』 (篠崎浅間神社)

善養寺境内に特操顕彰の碑があった。

特操顕彰の碑


碑文

 第二次世界大戦も末期の昭和18年(1943年)7月当時の帝國陸軍は、特別操縦見習士官(略して特操(とくそう)と云う)の制度を発足させ全国の高等専門学校以上の学生に対し、入隊時より見習士官の待遇を与え、航空機操縦者を中心とする航空将校の短期養成を図り、不利な戦局の挽回を図った。祖国の危機を救うべく奮起して、これに応じた学徒は、1期から4期まで7,000名に及んだ。

 厳しい訓練に耐えて実戦に参加した者の中から多くの戦死者を出したが、特に特攻作戦に当っては、その主力となって、南海の空に散華したものも多い。

 爾来星霜50年今や世人の大半は、特操の何たるかを知らず、生存する同志の齢も既に古稀をこえた。

 時にかつての同期の現住職特操顕彰の粗志を同期に諮り、その協賛を得てここに特操顕彰の碑を建立する。

 即ち日本一を誇る天下の名松の松籟を日夜聞く所、戦死者及びその後の物故者諸霊の冥福を祈り、現在の同志諸君には、過ぎし日の青春の熱誠に生きた日々を追憶するよすがとするものである。

偶成       星住山人

青春残照晴芒洋 戦唱地堕是処遥

松籟爆音既不知 白髭徒撫佇夕陽

 「爾来星霜50年」から9年、「生存する同志の齢も既に古稀」から「傘寿」を越える。

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