芭 蕉 翁
右側面に芭蕉の句が刻まれている。
硯かとひろふやくほき石の露
元禄2年(1689年)9月6日(陽暦10月18日)、芭蕉は
伊勢の遷宮
を拝みに
大垣
から舟で二見に向かった。
元禄2年(1689年)9月22日、杉風宛真蹟書簡にある句。
天明5年(1785年)春、建立。
海蝕洞からの眺め。
金磯弁才天
金磯弁才天由来記
桓武帝延暦の頃、僧空海恩山寺に於て、座禅瞑想修行の砌り東方海上の離島に龍燈をみとめたり。即ち船を雇して、入亀のすがた美しき此の島に上陸す。梅の香も馥郁たる内に微妙の音楽につれ、迦陵頻伽瑞鳥相交はり、飛び合ふ中に、容姿端麗にして威儀儼然たる一柱の女神を拝したり。空海畏み、その女神と一夜法話を交し給ふ。漸く東天の白む頃、女神は「妾は太古よりこの海域を守護いたす弁才天なり」と宣ひ、白龍と化して、海中に入り給ふ。因って空海慎みて此の処に弁才天を鎮祭す。この丘を蓬莱山といひ、古生代秩父古生僧珪岩頁岩よりなる。珪岩はこれより西約十三里霊峰剣山山頂の宝蔵石と同じにして、剣山山脈の東端まさにここに至るを知る。海崖海蝕洞あり。霊気みつる。処々熱帯植物榕樹生じ、天然記念物として保護せらる。現在の社殿は、約四百年程前の建立にして四国霊場第十八番恩山寺の奥の院なり。またこの神は広く紀伊水道の海域を守護すると共に人々に福徳を授け給ふ生神なり。
昭和六十年(乙丑)八月 恩山寺宮岡隆淳謹識
恩山寺は四国八十八ケ所第18番札所。
昭和14年(1939年)11月2日、
種田山頭火
は恩山寺に参拝している。
境内に蜀山人の歌碑があった。
仁義
| 分厘の雲さえ晴れてそろばんの玉の三五か十五夜の月
|
|
禮智
| 一村の奥女中かと見るまでに木ごとに花のわた帽子雪
|
史跡 弁天山砲台跡
文久3年(1863年)8月、多田家九代の祖宗太郎は海防に備えるため私財を投じてこの山に砲台を築き、砲8門・火薬庫・兵舎・番所・道具舎・射撃練習場等の砦を完成し徳島藩主に献上した。
今年の旅日記
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
|