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私の旅日記
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2009年
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常保寺
〜中原章の墓〜
青梅市滝ノ上町に
常保寺
(HP)という寺がある。
常保寺山門
瀑布山常保禅寺
臨済宗建長寺派
の寺である。
常保寺方丈右手の庫裏の前に芭蕉の句碑といわれるものがあった。
正風宗子
芭蕉靈祠
句碑とはちょっと気付かない。
玉川の水におほれそおみなへし
『芭蕉句選』
、
『芭蕉翁發句集』
、
『風羅袖日記』
、
『奥の枝折』
、
『
俳諧
一葉集』
に収録されているが、 誤伝で
杉風
の句。
玉川の水におほれそをみなへし
浪化公曰、西上人
をみなへし池のさゞ波に枝ひちて
ものおもふ袖のぬるゝ顔なる
此歌の心を取て、女をいさめの心也。玉川日本に六ヶ所在、是は井出の玉川にて山吹の名所なれば、夫に替てみなへしにおぼるゝなとなり、高野の奥の玉川には女郎花を詠じ例もあり、一説此句杉風が句なりとあり、浪化公は直弟、如何考べし。
『芭蕉翁句解参考』
(月院社何丸)
慶応3年(1867年)に常保寺十三世節山玄礼和尚が建立したと伝えられているそうだ。
『諸国翁墳記』
に「
玉川塚 武州多磨郡青梅瀧之岡 小簑菴連中建
」とある。
「小簑菴」は常保寺十一世住職雪洞玄岩。
支兀
(しこつ)
と号した。
文化8年(1811年)12月17日、73歳で寂。
中原章の墓があった。
市指定史跡
中原章の墓
墓碑の左右裏面 の三面に、当寺十一世住職支兀和尚の撰文が刻まれ、次のような意味が漢文で記されている。
「先生の出身は明らかではないが、姓は多賀、名は章、字は士文と称し、また号を五柳ともいった。 大変博識な人で、何を聞いても答えられないものはないというほどであった。小食にして多飲、専ら冷酒を愛好した。多摩川のほとりに14年ほど漂泊した後、庵を蒼梅(青梅)市中に結び、慕って集まる人たちにいろいろな事を講じた。晩年は髯
(ひげ)
をたくわえ、衣服なども意に介せず粗末な服装で通した。虱がたかっても、それをとることもなく、またつぶすでもなかった。周囲の人が心配して新しい衣服を贈っても、それを着替える事すらしなかった」と。
寛政2年(1790年)10月1日没したが、手記には次の歌が書かれている。
「同じくはかくて吾が世をふる寺に
すみはてぬべき 身とならばや
章」
青梅市教育委員会
門下に
真浄寺
中興開山浄月律師がいる。
常保寺には小簑菴支兀の句碑があったそうだが、今はない。
とりとめぬ遊び心や花くもり こみの庵支兀
当山十一世雪洞老師 文化十四年午年十月立之
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