このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2009年

常保寺〜中原章の墓〜
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青梅市滝ノ上町に 常保寺 (HP)という寺がある。


常保寺山門


瀑布山常保禅寺


臨済宗建長寺派 の寺である。

常保寺方丈右手の庫裏の前に芭蕉の句碑といわれるものがあった。

正風宗子
芭蕉靈祠



句碑とはちょっと気付かない。

玉川の水におほれそおみなへし

  『芭蕉句選』『芭蕉翁發句集』『風羅袖日記』『奥の枝折』俳諧一葉集』 に収録されているが、 誤伝で 杉風 の句。

   玉川の水におほれそをみなへし

浪化公曰、西上人

   をみなへし池のさゞ波に枝ひちて

      ものおもふ袖のぬるゝ顔なる

此歌の心を取て、女をいさめの心也。玉川日本に六ヶ所在、是は井出の玉川にて山吹の名所なれば、夫に替てみなへしにおぼるゝなとなり、高野の奥の玉川には女郎花を詠じ例もあり、一説此句杉風が句なりとあり、浪化公は直弟、如何考べし。

『芭蕉翁句解参考』 (月院社何丸)

 慶応3年(1867年)に常保寺十三世節山玄礼和尚が建立したと伝えられているそうだ。

『諸国翁墳記』 に「玉川塚 武州多磨郡青梅瀧之岡 小簑菴連中建」とある。

「小簑菴」は常保寺十一世住職雪洞玄岩。 支兀 (しこつ)と号した。

文化8年(1811年)12月17日、73歳で寂。

中原章の墓があった。


 市指定史跡 中原章の墓

 墓碑の左右裏面 の三面に、当寺十一世住職支兀和尚の撰文が刻まれ、次のような意味が漢文で記されている。

 「先生の出身は明らかではないが、姓は多賀、名は章、字は士文と称し、また号を五柳ともいった。 大変博識な人で、何を聞いても答えられないものはないというほどであった。小食にして多飲、専ら冷酒を愛好した。多摩川のほとりに14年ほど漂泊した後、庵を蒼梅(青梅)市中に結び、慕って集まる人たちにいろいろな事を講じた。晩年は髯(ひげ)をたくわえ、衣服なども意に介せず粗末な服装で通した。虱がたかっても、それをとることもなく、またつぶすでもなかった。周囲の人が心配して新しい衣服を贈っても、それを着替える事すらしなかった」と。

 寛政2年(1790年)10月1日没したが、手記には次の歌が書かれている。

「同じくはかくて吾が世をふる寺に


    すみはてぬべき 身とならばや
   章」

青梅市教育委員会

門下に 真浄寺 中興開山浄月律師がいる。

常保寺には小簑菴支兀の句碑があったそうだが、今はない。

とりとめぬ遊び心や花くもり   こみの庵支兀

当山十一世雪洞老師 文化十四年午年十月立之

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