このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

妙青寺〜種田山頭火〜
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三恵寺 から坂を下って妙青寺へ。

妙青寺山門


 創建は永享3年(1431年)、大内持盛が先代盛見(もりはる)の菩提寺として建立し、寺号を国清寺としました。のちに大内義隆が滅んだ際に旧臣である杉連緒(つらつぐ)が義隆の菩提を弔うため大修理し寺号を瑞雲寺と改めました。江戸時代になり、初代の長府藩主、毛利秀元侯が実姉妙青大姉を当地に埋葬するため伽藍の大修理を行い、寺号を妙青寺としました。以来毛利氏の庇護を強く受け、毛利藩主の立ち寄りの際には本陣とされたといいます。貞享元年(1684年)に綱元侯が御殿湯を設けた折に殿堂、山門、鐘楼などを再建しています。

 この寺の庭は、室町時代の画聖、雪舟の築造と伝えられています。雪舟は文明元年(1469年)に中国の明王朝から帰朝し、山口に雲谷庵を構えましたが、この時期は国清寺の頃と重なります。

 昭和7年(1932年)の夏には、漂泊の俳人、 種田山頭火 が川棚温泉に滞在し、3月余りの間に300を超える句を詠んでいます。自由俳律句と托鉢行脚の旅人生で知られる山頭火は、川棚温泉とこの一帯の風土を気に入り、日記に「川棚は地形に於いても申し分がない、山裾を丘陵にめぐらして、私の最も好きな風景である」と記し、ここを終の棲家にと結庵を望みました。

 境内には、川棚温泉の人肌になじむ湯の心地よさを詠んだ「湧いてあふれる中にねている」の句碑があります。昭和31年(1956年)建立。

豊浦町教育委員会

山頭火の句碑


湧いてあふれる中にねている

昭和31年(1956年)7月5日、建立。大山澄太揮毫。

『山頭火句碑集』によれば、6番目の山頭火句碑である。

山頭火と川棚温泉

「湧いてあふれる中にねている」ほのかにゆらめく温泉(ゆ)のかおり、湯ぶねの中に一本の杓子がゆらゆらとゆらめいている。それもキズだらけの杓子が、その杓子こそ行乞の俳人、種田山頭火の姿であった。母の位牌と托鉢の鉢の子だけをたよりに天地自然の神と同行二人、まったく無一物でひたすら俳句の道をさすらい続けたあげく、湯けむりにあこがれ50の坂道をあえぎながら川棚温泉にたどり着いた、昭和7年5月24日のこと。ふるさとはみかんの花の匂うとき、ふと生まれ故郷(山口県防府市西佐波令)の思い出があれこれとみかんの花びらに乗ってきた。流転の終着駅を探していたときだけに、山頭火は温泉とみかんの花の匂う川棚温泉との出合いが、たまらなくうれしかった。それにもうひとつありがたいことには、ここに禅門ゆかりのお寺妙青寺(曹洞宗)のあることだった。どうしても落ち着きたい夕月、ここならどうにか落ち着けそうだ。お寺の土地に草庵を結ぶことができたらどんなによかろう、わぴ住まいの夢を追いながら山頭火はおぼろに光る妙青寺の裏山にひっそりと立ち尽くした。ここの土となろう、お寺のふくろう(ここが私の死場所ですよ)しみじみとふくろうに呼びかける山頭火だった。だがやがてその夢ははかなく消えてしまった。こじき坊主のせつなさ、信用がないばかりに草庵を建てる土地の交渉がうまくいかなかったのだ。どうしようもない、ただあきらめるよりほかに道はなかった。昭和7年8月26日、山頭火は川棚温泉への思いをふっつりと切って、宿の人たちと赤トンボに見送られ俳友たちの待っている小郡(山口県吉敷郡)の空へと急ぐのだった。今日はおわかれのへちまがぶらり、芭蕉は「覇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、是天の命なり」といったが、山頭火もまた芭蕉の心を慕って流浪の旅路に晩年をきざみ、昭和15年10月11日、四国は松山の一草庵でたった一人きりポックリと死んで行った。行年59歳。

山頭火略年譜

本名種田正一。明治15年12月3日、山口県防府市西佐波令の大地主の長男として生まれる。23歳早稲田大学中退。32歳 萩原井泉水 に師事35歳(大正5年)生家破産。44歳(大正14年) 出家得度 。45歳行乞流転の生活に入る。51歳(昭和7年)川棚温泉に100日近く滞在のあと小郡町矢足の「其中庵」に庵住。57歳「其中庵」破れ山口県湯田温泉の「風来居」に転住。58歳四国遍路の旅へ。松山の一草庵に庵住。昭和15年10月11日 一草庵 で酔死。

小串吉津記

豊浦町観光協会

妙青寺本堂


本尊は観世音菩薩。

行基 作と伝えられるそうだ。

曹洞宗 の寺である。

雪舟の庭


良さが分からない。

龍王神社 へ。



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