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国道414号線
峰山隧道(仮)



静岡県河津町
平成21年12月13日










レポ作成の為に3度訪れた峰山の旧道。
何時の間にやらモーテルは廃業となったらしく、隧道跡への分岐手前にもう一つ簡易な封鎖が敷かれるようになった。
このモーテルも隧道閉鎖から6年近く経ちずいぶんと頑張ったようだが、人の流れの変化には勝てなかったようだ。

第一封鎖を抜け、以前よりあった隧道跡入口前の第二封鎖を抜ける。
すると、またしても新たな「封鎖」が待ち受けていた
















多重に積み重ねられた巨石。
辺りに崩れた箇所は無く、明らかに人為的に積まれた物だ。
砕石場からダンプか何かで持ってきて、此処に降ろしたのであろうが、一体何の為に?
そこまでして此処の隧道に近づけさせたくないのだろうか?
それとも単なる不要石材の放棄?
なんだか解らんがとり合えず岩を乗り越え隧道の様子を伺いに行く。




















・・・・・・・・・・。














てか、もう見えてる。


10ヶ月経ってより更に見え見えになった隧道。
初回のあの苦労は一体なんだったんだ・・・
現在の隧道の状態を確認し、今回の目的である石碑のチェックへと向かう。
















相変わらず人が来た形跡が感じられない石碑。

しかし自分が訪れた一週間前に間違いなく「2人の人物」がこの場所に訪れている。
正直、自分なんかより、よっぽどこの「2人の人物」の方がこの隧道を深く掘り下げられる事は間違い無いのだが、あえて再びこの場所へ訪れた。

石碑へ近づき、2年前の画像では読み取れなかった文字をもう一度確認する






















H19年に撮った画像では解らなかった文字がこの画像である程度わかるようになった。
自分は直に見に行き、すっかり忘れていた石碑の内容を思い出す事が出来た。

皆様はこの石碑に何とかいてあるかお分かりだろうか?

隧道壓死工夫
中村松太郎碑
(解読協力:一見客さん】

下記にカーソルを置くと画像に補足。


内容は「隧道落盤事故で亡くなった中村松太郎氏の碑」と意味でほぼ合っているだろう。












石碑横には「明治25年・・・」と刻まれる。
天城山隧道開通が明治38年開通なので、此方の方が13年も早く開通している。
伊豆半島において初の近代隧道の開鑿は伊東~冷川間の柏隧道(明治15年)であり、この隧道はそれについで2番目である。

これは個人的な予想だが天城山隧道が開鑿されるまで東京方面からは、熱海から稲取まで船運で迂回し河津から下田街道で下田まで向かうと言うルートがあったのでは?とか思っている。(現R135にあたる東海岸道路は昭和になってから)

伊豆半島でもかなり早い時期に開通し、ポータルデザインも秀逸な隧道にも関わらず、小説の舞台となった天城山隧道に影に隠れて記録も殆んど残らずひっそりこの隧道は消えていった。

しかし、この石碑には並々ならぬ思いでこの隧道を貫いていった人々の思いが残されていたのであった。



















中村氏を弔う一句。
右側の一文は旧漢字が多く、また文字も掠れ自分には深くこの文を追求する事が出来ない。

が、自分が最も深く感銘し、これが中村氏を最大に敬意を持って刻まれていると感じたのが左側の一文だ。

「軍人之戦死」

隧道工事の作業員の災害事故、ではなく軍人として戦死した、刻んでいるのである。

素直にこの文を飲むと、この隧道工事には軍が関わったと言う事を伺い知らされる。
ググッた程度ではこの隧道工事の施行組織などは解らず、本格的に裏づけを取るには県史もしくは河津町史などの資料を読まなければならないだろう。

だが、そんな事よりも自分にとって重要なのは「軍人」として中村氏を弔っている事であった。

明治25年と言うのは、清国と朝鮮半島の利権争いで一触即発の状態であり、またイギリスを始めとした西洋列強との不平等条約解消の為に一流国家を目指し富国強兵に勤めていた時代であった。
そんな中、港町下田を目指し旧来の街道を改修し荷馬車も通れる隧道を峠に貫こうとしたのである。



この隧道を貫く事で伊豆、更には日本の産業が発展し、列強入りに一歩前進できると信じて人々は工事に挑んだのであろう。
単なる土木工事などではなく、国運を賭けた一つの戦であると。
岩盤を砕くツルハシは敵を斬る刀にも等しいかったのだ。
故にこの工事で亡くなった中村氏は、「隧道工事と言う名の戦い」を全力で戦い散っていった戦士であった。

この忘れられた隧道には、どんな小説にも劣らない熱い物語が隠されていたのだっだ。



















と、いい感じに〆てレポを終わらせたいのだが・・・・






















北側坑口の石碑を確認し、とり合えずこの日の目的は達成された。
正直、この日殆んど寝ないで伊豆へと訪れていたので、
このままさっさと帰還しようかと思っていた。

しかし、もう一つこの隧道において気になる部分があった。
それは南側坑口の扁額。

2度の探索において両方とも扁額が見せそで見えない状況が続き、
もはや確認する事は無理かと思われた。
だが北側坑口周辺の植生がかなり治まっていた事から
もしかすると今回こそ南側の扁額を確認する事が出来るのではないか?

そう思い現道「峰山トンネル」を回って南側坑口跡へと向かった。
そうするとやはり、前回、前々回と比べるかなり籔の膜は薄くなっているように感じられた。

これはいけるのでは?
南側坑口を埋めた斜面をよじ登る。












そしてある程度のまで登って来た時の画像。
振り返れば植物の合間からセローさんを見下ろす形に。
そして正面には・・・





三顧の礼にてついに扁額にご対面。


・・・・って言うか




扁額に「河津」っていう文字にみえるんですけど。


え?マジ?もしかして現道に旧道の隧道名継承されてないって事?
この時、半信半疑。
事態飲み込めず。
イヤイヤ、もしかしたら北側と南側ぢゃ掲げられている隧道名が違うのかも。
なーんて、ムリヤリなこじ付けさえ思い立ったが・・・


北側扁額。
キチンと確認してみればこちらも
『河津隧道』
(注:ロールオーバーした時に出る書体と実際の扁額の書体は違う。 )
と刻まれているではないかッ!

・・・・。




国道414号線
河津隧道(正・・・orz



静岡県河津町
平成21年12月13日



隧道名間違えてますた。

念のため 隧道リスト (天城山隧道下)も確認してみたけどやっぱり「河津隧道」だった・・・



りさーちぶぞく。







河津隧道でちょっと気になったモノ



気になったモノその1
巨大法面石垣

今までなんとなしに通り過ぎていた隧道前の切り通し。
一見何でもの無い草まみれの斜面かと思いきや、
その置くにはい1m近いデカさもある岩が積み上げられ法面となっていた
真ん中に置かれた携帯電話と比較
まるでコレは城郭の石垣か?と思わせるほどデカイ。
だが、ある程度整えられた城郭石垣に比べれれば、
この石垣の岩はそのまま積み重ねて法面にしてしまったような感じである。

現地の石切り場で採取された余りモノの岩をそのまま使ったのかも。

さすが石材の地、伊豆ならではの豪快な石垣である。





気になったモノその1
南側坑口に変化?

今回のレポ作成の切欠に「強力なプレッシャー」があった事を前回述べた。
ぶっちゃけ言えばこのプレッシャーとは このブログ である。
そう、「 日本の廃道 」編集長nagajis氏と「 山さ行かねが 」のヨッキれん氏が探索されたのである。

よーするに「実はぼくちんもこの隧道を探索してたよ、えへへ♪」と言うコトだったのである。
みみっちい虚栄心。

が、あわててup&いつもどおりのいい加減リサーチで隧道名を間違えるという初歩的なミスをする。

一方、日本廃道界の2大巨頭はやはり違った。
常人が考え付くより更にもう一歩踏み込んだ探索をしちゃうのである。
改めて坑口上部を見てみると何か以前より変化があるような無いような・・・

と言うか、あの二人なら「ヤル」よな。
「ほーるいん」を。
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