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●守山区を巡る河川







●庄内川水系 ●庄内川水系矢田川関連

10. 矢 田 川

愛知県瀬戸市と豊田市の境、猿投山(標高629m)戸越峠付近を水源とし、赤津川、海上川そして水無瀬川の水を集め、山口川、矢田川と名を変え瀬戸川と合流、西に流路を取り平坦部で香流川と合流、名古屋市北区福徳町・西区稲生町庄内川橋辺りで庄内川と合流する幹川流路延長23.7km(区内流路延長12.6km・下流22.4kmが一級河川)、県管轄区流域面積109km2の庄内川支流最大の河川。
そのほとんどを瀬戸市、尾張旭市、守山区を流れ向台、森孝地区を除く守山区の南の境界となっている。
古くは現在よりやや南の現庄内用水あたりを流れ庄内川合流点へ至っていたが、昭和初期の河道付け替えにより現行の流れとなった。
名称の由来は矢田川下流域旧矢田村を経由したことに起因していると思われ、上流の瀬戸一帯は陶磁器の一大産地であり、その産業排水により白濁し危機的状態でしたが近年は河川浄化の意識も高まり徐々に改善されている。

写真上左 
瀬戸川と矢田川合流部 西本地橋より300m程上の雑木に覆われた砂防堰堤やや上流で二つの川は合流する。(写真左奥から瀬戸川、右から矢田川/愛知県瀬戸市西原町・西本地町間)
写真上中 
矢田川サイクリングロード 矢田川の河川敷は庄内川のそれと比較すると改修され公園化されている所が多く、瀬古−大森間約7.5kmに設けられた遊歩道も多くの人々に利用されている。
写真上右 
尾張藩鉄砲稽古場 尾張藩の時代には矢田村一帯は尾張藩砲術指南稲富平左衛門の知行地(大幸村飛び地)があり稲富山と言い、藩鉄砲稽古場があり、今でも部分的に河川敷が広くなった所がある。(守山区町南対岸東区大幸地内)
写真下左 
1767年(明和4)7月13日の長雨による大洪水で長母寺南を流れていた矢田川が氾濫、川筋が長母寺北の鞍部を貫き地続きであった宝勝寺・守山城趾(守山区市場)とは切り離され長母寺は守山丘陵から現在のような対岸の寺(名古屋市東区)となってしまった。(写真右ビルの裏の森が宝勝寺・守山城趾の森、左が長母寺の森、中央を矢田川が貫いている。) 
写真下中 
守西ポンプ場排水口 古川の水はポンプ場(写真中央の建物)で矢田川へと排水され、また庄内用水(黒川・堀川)へも一部分流される。(守山区瀬古一地内。1967年(昭和42)竣工)
写真下右 
矢田川・庄内川合流部 右が矢田川、左が庄内川。古くはこの近くで1556年(弘治2)8月24日、織田信長と弟信勝が家督を争った稲生の戦いが行われた。(名古屋市北区福徳町・西区稲生町)


11. 天 神 川

愛知県尾張旭市内平池辺りを水源とした、流路延長4.3km(区内流路延長1.0km)、流域面積8.6km2の一級河川。
その大部分は尾張旭市内を流れ、区内では八剱・脇田町・今尻町の間をわずか500~600m経由し矢田川に注ぐ。地元の古記録「祖父子誌」には尾張旭渋川神社一帯の湿地そして水田をソブコと言い同川もその当時はソブ川と呼ばれていたと思われる。


写真上左 
水源の一つ平池。(尾張旭市東大道町地内)
写真上中 
左が天神川、右奥より平池の余水が流れ込み、手前から護岸工事された用水が暗渠を出て流れ込む。(尾張旭市東大道町地内)
写真上右 
守山区内を数百メートル流れ東名西町法福橋付近より尾張旭市内に入る。(尾張旭市東名西町地内)
写真下左 
家並みの間を縫うように流れ、やがて東名高速道路の下を潜る。(尾張旭市東名西町地内)
写真下中 
矢田川との合流部 手前が矢田川、上方斜めより天神川が注ぎ込んでいる。(守山区脇田町・今尻館町間)


12. 森 孝 川

尾張旭市新池を水源とし区内森孝東で香流川に合流する流路延長1.6km(区内流路延長0.4km)、流域面積1.6km2の準用河川。
宅地化と共により多くの排水需要が生じそれを賄うため1980年(昭和55)より河川改修が行われ、現在はコンクリート護岸の小河川となっている。

写真左 
水源池 平池の西角(写真右奥)遊歩道の下から流れ出る。(尾張旭市南栄町旭ヶ丘地内)
写真中 
住宅街の中を緩やかなカーブを描き区内を数百メートル流れる。(森孝東二地内)
写真右 
香流川との合流部 手前が香流川、薄紫に塗装された緑橋の下を森孝川が合流する。(森孝東二地内)


13. 香 流 川

猿投山(愛知県豊田市と瀬戸市境・標高629m)の西方、愛知県長久手市岩作(やさこ)三ヶ峯(さがみね)付近を水源とし、神明川・雁又川・鴨田川・藤ノ木川など支流に持ち、守山区千代田・千種区竹越付近で矢田川に注ぐ流路延長12.5km(区内流路延長5.1km・下流8.9kmが一級河川)流域面積28.3km2の河川。
矢田川の主要支流でその名の由来は明確でなく、上流の権道(ごんどう)寺が兵火により焼失、その瓦礫を川に捨てた所、香気がたち黄金の仏像が現れいつしか香流川と呼ばれたとの昔話が伝わる。また『尾州府志』には「金連(かなれ)或作香流」とあり産鉄に関する「金流れ」から来ているとも言い、小牧長久手の戦いの折り多くの戦死者の血が流れ血流川の転化ともいい、藤ノ木一帯に古く「香流」という地名があったとも言うがいつ頃の地名か定かでなくその命名起源は解らない。また同川は野田川と呼ばれていたともいうがこれも定かではない。
早くから土地区画整理事業が行われ都市化が進んだわりに自然的景観を残し水質も保たれ、1989年度から護岸整備、河道掘削など改修が行われている。
写真左 
雑草の茂る自然環境、遊歩道も完備され多くの人々が水に親しんでいる。(写真左守山区小幡千代田、右千種区竹越)
写真中 
親水性を保ちつつ綺麗に護岸工事されている。写真上高架橋は東名高速道路。(写真左守山区四軒家、右名東区藤森西町)
写真右 
矢田川との合流部 左が矢田川、右奥より香流川が合流する、正面は名古屋市猪子石工場。(ごみ処理工場)


14. 隅 除 川(すみよけがわ)

太鼓ヶ根・御膳洞(ごぜんぼら)付近の丘陵を源とし大森北と尾張旭市の境を南西に流れ雨池(区内御膳洞壇ノ浦)に流入。
水は雨池を満たし再び池より流出、大森・喜多山南の境の名古屋環状2号線(東名阪自動車路)と瀬戸街道を暗渠で抜け、太田井で矢田川に注ぐ流路延長2.8km(区内流路延長1.89km・下流1.9kmが一級河川)、流域面積2.6km2の準用河川。

写真上左 
太鼓ヶ根・吉根東丘陵よりの源流は縁に沿って南へ、やがて写真左東名高速道路の盛り土に沿って南西へ流れる。(大森北二地内)
写真上右 
流れは写真右より雨池へ流入し写真中央の余水吐けと右側の取水口から隅除川へ流出する。(御膳洞地内)
写真下左 
法輪寺裏で名鉄瀬戸線の線路を潜り流路を南から南西へ変える。(大森三地内)
名鉄瀬戸線脱線転覆事故
1948年(昭和23)1月5日10時15分頃、愛知県東春日井郡守山町字大森(現名古屋市守山区大森三丁目)付近の名古屋鉄道瀬戸線で、尾張瀬戸発堀川行き急行が、大森駅(現大森・金城学院前駅)東側の急カーブを曲がりきれずに脱線転覆。初もう客で満員の電車は50mほど引きずられ36人が死亡、153人が負傷するという瀬戸線史上最悪の事故。(写真手前赤い煉瓦の橋脚部分が当時の物で、この急カーブは後改善され写真奧の新しい橋脚が造られた。また後この西方に交通安全地蔵尊が建立された。)

写真下中 
瀬戸街道、名古屋環状2号線(東名阪自動車道)を暗渠で潜る。(喜多山南・大森一地内) 
写真下右 
矢田川との合流部 適度な水量と水質で子どもらの格好の遊び場となっている前方対岸は名古屋市名東区市営天神下荘。(守山区太田井地内)


15. 守 山 川

古くは大川と呼ばれた自然河川がこの辺りを流れていたが耕地整理に伴い埋め立てられ、組合により新たに水源を大森地内太田井付近に求め用水として開削され守山川と呼ばれるようなった。
本来は農業用水であったが一帯は早くから宅地化され雑排水が流入、一時ドブ川状態となっていたが1971年(昭和46)より9年の歳月を要し総延長3.4km(下流2.7kmが一級河川)の三面コンクリートの河川改修が終了、その後も数度の改修工事が行われ下水道の完備と共に雨水などの排水路となり宮前橋下流町南で矢田川に注でいる。流域面積2.6km2の準用河川。流路延長3.4km下流2.7kmが一級河川に指定されている。


写真上左 
干からびた最上流部 前方緑の道は隅除川堤防、隅除川とは交わっておらず矢田川からの農業用水の余水の一部が流入するにすぎない。(太田井地内)
写真上中 
特定の水源を持たない守山川は各所でこの様に雑排水などが流入する。
写真上右 
すいどうみち緑道の橋 写真右から左に守山川、その地下を木曽川より取水し名古屋市の浄水場に送水される導水管が通りその上に作られたすいどうみち緑道が交わる三層構造になっている。(更屋敷地内)
写真下左 
守山川町南樋門(写真左) 1972年(昭和47)3月、河口部に作られた流量調節などの水門。
宮前橋緑地人道橋(写真中央) 1995年(平成7)3月、河口部の矢田川河川敷内のサイクリングロードに架橋された人道橋。
矢田川サイクリングロード(写真右手前) 河口部の矢田川サイクリングロード。(以上三ヶ所町南地内)
写真下右 
矢田川との合流部 左から守山川、右矢田川本流、前方はガイドウェイバス(ゆとりーとライン)高架橋。(左守山区町南 右名古屋市東区大幸)


16. 白 沢 川

小幡丘陵北西部、牛牧一帯の谷から溢れた出た水は急流となり東南に下り白沢川となり所により牛牧川と呼ばれ旧古川となった。流れは一度大雨ともなれば下流の川村・大森垣外・大永寺・金屋坊・幸心・瀬古村等に度々甚大な被害をもたらし五(六)ヶ村悪水とも呼ばれる暴れ川となっていたが、1768年(明和5)瀬古村を中心としてこの悪水改善の嘆願書が出され、白沢川は従来の流れを大きく変え小幡丘陵下で締め切られ丘陵沿いに開削された水路を北に流され庄内川に直接落とされる事となり現在の白沢川ができ現古川は独立河川となった。
その後1904年(明治37)上流一帯の治水工事が行われ新たに砂防ダムが築かれ緑ヶ池、竜巻池、見返ヶ池(小幡緑地本園内)が出現、同池を水源とした流路延長1.01km、流域面積3.8km2の準用河川が誕生した。
近年では1976年度(昭和51)より名古屋環状2号線(東名阪自動車道)建設に伴い下流部250mを除き全面河川改修が行われ1979年度(昭和54)に工事完了、名古屋環状2号線(東名阪自動車道)庄内川大橋下で庄内川に注ぐようになった。同地区は近年まで雑木林を縫い森に囲まれ白沢池が有る深山的雰囲気を醸し出していましたが、一帯は宅地化が進み1991~1996年(平成3~8)にかけ改修され堰堤の修理と護岸整備、城土公園内には吊り橋「微笑橋」が架けられ白沢渓谷と呼ばれる親水公園となっている。
※現在旧微笑橋は撤去され、コンクリート製の「新微笑橋」に架け替えられ、2017年(平成29)3月19日に渡り初めが行われた。

写真上左 
白沢川源流 大森八龍・牛牧・吉根の丘陵は未だ自然豊富で、この様なせせらぎが所々見られ緑ヶ池に注いでいる。(牛牧地内)
写真上右 
1902年(明治35)より始まった治水工事で出来た緑ヶ池。この堰堤余水吐けとその脇の取水口より更に下の砂防ダム池見返ヶ池へと谷水は集められ、その余水吐けより白沢川は南西に流れ出している。砂防ダム建設によって出来た緑地帯は現在小幡緑地本園として区を代表する公園となり、また多くの貴重な水性動植物の宝庫として訪れる人も多い。
写真下左 
住宅地を流れる白沢川。(松坂町地内)
写真下中 
白沢渓谷城土(しろつち)公園 流路を南西から北へと大きく換え白沢池辺りは親水公園として整備され渓谷美を作り出している。※写真の吊り橋(微笑橋)は2017年(平成29)に撤去されコンクリート橋に架け替えられている。(城土町地内) 
写真下右 
庄内川との合流部 前方左右が庄内川、手前から庄内川河川敷内で八ヶ村用水を跨いだ白沢川が庄内川に合流する。(川脇地内)


17. 御用水・庄内用水 18.古川・五(六)ヶ村用水 19.八ヶ村用水
上記、16.白沢川、17.御用水・庄内用水、18.古川・五(六)ヶ村用水、19.八ヶ村用水は守山区西部の平坦部を共に流れ、時代により同一の流れでありまた開削により分流されそして再度合流したり、名を代え用途を代え現在に至っている。

●御用水・庄内用水
1610年(慶長15)名古屋城が完成、当初お堀の水は湧水等で賄われていたがその後不足を生じ新たな水源が求められ、1663年(寛文3)御用水が開削された。初期には龍泉寺西側現川東山付近で庄内川より取水し庄内川沿いに川村・幸心・瀬古地区を経由し矢田川に落とし込みお堀の水を満たし、その一部はお城西巾下地区の上水道にも用いられていた。
その後用水は矢田川の河床が上昇したため1676年(延宝4)伏越(水路トンネル)を作り通水、庄内川取水口は上流部に移り、水路には水焼けを防ぐため松並木が造られ川底には玉砂利を敷き詰め水質保全が図られるようになった。(同用水の一部は
川村用水ともいわれた。)
1886年(明治19)、愛知県犬山市、木曽川より新木津(こっつ)用水(八田川)、庄内用水、黒川(大幸川の一部)、堀川(名古屋市中区納屋橋)を経由し名古屋港に至る大運河が計画され区内庄内川水分橋上流に庄内用水頭首工が設けられ庄内用水元杁樋門が設けられここより取水され新たな庄内用水が完成。
1909年(明治42)よりは乗客の運用も始まりました。それにより旧御用水は廃棄されその後水路は八ヶ村用水(下記八ヶ村用水の項参照)として復活することとなった。

※当時この様な大規模な用水を開削した裏には藩主危急時に御深丸埋門(うずみもん)より堀を渡りこの用水を利用し城下を脱出する軍事的思惑があったと言われている。( 御土居下同心と廿軒家の隠れ同心の頁参照 )。 

写真上左 
庄内用水頭首工より取水された水は庄内用水元杁樋門(手前石垣部分)を潜り庄内用水(堀川)となり区内を650mほ南西へ流れる。(以下全て瀬古地内)
写真上中 
守西ポンプ所取水口 庄内川より取水された水は写真右旭橋を潜りポンプ場に送り込まれる。
写真上右 
守西ポンプ所 古川の水はこのポンプ場で矢田川へと排水され、一部は庄内用水(黒川・堀川)また古川の水量調整のた用水に放出される。1967年(昭和42)竣工。
※守山点描1/庄内用水元杁樋門
守山の近代遺産/庄内用水元杁樋門 参照


●古川・五(六)ヶ村用水
古川は古くは白沢川の支流であったが度々水害をもたらす悪水として下流の村々の嘆願により白沢川を締め切られた事により誕生した(上記白沢川の項参照)。その後古川は小幡丘陵、庄内川を水源とした灌漑用水となり、1886年(明治19)庄内用水頭首工より庄内川の水を取水する新たな庄内用水が完成。御用水が廃棄されると(御用水・庄内用水の項参照)その一部は八ヶ村用水となり(八ヶ村用水の項参照)同用水は下流部で古川と合流し新たな古川が出来た。
その後1976年(昭和42)古川は現庄内用水より切り離され守西ポンプ場より矢田川に排出されたが、2002年(平成14)再度庄内用水、古川の水量調節のため一部は用水に放出される事となった。
古川は時代の要求により名を変え、用途を変え、水路を変え現在に至っている。



写真上左 
天保12年川村絵図 上方(北)庄内川、右(東)-白沢川、中央に六ヶ村用水取入口(時代により五ヶ村用水とも呼ばれた)、左に御用水取入口と二つの樋門が描かれている。
写真上中 
山下公園横では水辺に降りられるようになっており親水性を増している。用水はここですいどう道緑道を潜る。(村合町地内)
写真上右 
用水に沿って遊歩道が造られ、ここで前方中央線新守山駅プラットホームの下を潜る。(金屋地内)
写真下左 
用水は八ヶ村用水合流部を過ぎると間黒神社の境内を横切る。(幸心一地内)
写真下中 
護岸工事された用水は瀬古地内を西流し写真奥守西ポンプ所へと流入し矢田川へ一部は庄内用水(堀川)へと分流される。(瀬古一地内)
写真下右 
守西ポンプ場の「古川揚水送水管」。このパイプにより古川の水は庄内用水(黒川・堀川)へ分流される。(瀬古一地内)


●八ヶ村用水
【資料一(新守西の碑)】
八ヶ村用水は、1876年(明治9)の取水位置の変更により廃止された御用水の上流部の水路と郷合川の水源を併せて、川村、牛牧、大森垣外(がいと)、大永寺、金屋坊、守山、幸心、瀬古の八ヶ村の灌漑を受け持つ水路となった。
八ヶ村用水という名称は、ここに由来するといわれる。
1950年(昭和25)8月、庄内川の大規模な出水により、壊滅的な被害を受けた堰堤と導水路は、地元民や関係当局の努力により、幾多の難関を越え4年後(1954年/昭和29)に竣工した。
現在も、農業用水として利用されているこの用水路は、さらに親しまれる水路として改修され、今後も流れ続けるであろう。                     平成6年3月 名古屋市

【資料二(川上町、白沢川畔の碑)】
「八ヶ村用水導水路は1950年(昭和25)8月の庄内川大出水の為殆ど壊滅的に等しい被害を受けた。時に関係者一同善後策を研究の結果国費の補助を得て恒久的復旧工事の実施を決意し八ヶ村治水利水期成同盟会を結成市の委託工事として翌年1951年(26)3月着工した。尓来関係当局及び地元民必死の努力により幾多の難関を越え1954年(昭和29)9月竣工した。この間丹羽兵助会長の絶大なる盡力の結果県直営の巨費を授し床止堰堤復旧工事の完成を見両者相侔つて用水取入の完璧を期することを得地元民多年の宿望と幸福を達成したのである。
昭和35(1960)年3月        建之 守山市長黒田毅 以下多数



写真上左 
庄内川取水口 龍泉寺下砂防ダム脇より取水している。(川東山地内)
写真上中 
八ヶ村用水樋門 庄内川、春日井市下津尾と守山区龍泉寺下の砂防ダム(堰)より取水し河川敷内に敷設された水路(幅1.5m)を庄内川に沿って西に数百メートル行き白沢川の下をトンネル(樋)により潜り庄内川堤防を再度トンネル(樋)にて潜り川上町・川北町を西流しアサヒビール裏を通り幸心地区で南に向きを変え幸心一・新守西で古川の山王橋下流で同川に合流する。(昭和54(1979)年3月完工・川上町地内)
写真上右 
流域は都市化が進み工場、住宅地となり水需要は少なくなっている。(西川原町ビール工場裏)
写真下左 
幸心、新守西地内では美しく護岸工事され住宅地を流れる。
写真下右 
古川との合流部 古川山王橋下流で西流する同川と合流する。(後方は間黒神社の森、幸心一・新守西間)


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