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絶対正義の憂鬱





 大津いじめ事件について、報道が喧騒を極めるようになってきた。本件については Web空間上に多種多様な情報が流布しており、何が正しい情報であるか判断しにくい。しかし、示唆に富む事件であることは間違いない。そこで、確実にいえそうな範囲について、書き留めておく。





■学校・先生への徹底的な不信

 まず、自殺した生徒はマンションに住んでいたので、所謂「新住民」に属するはずだ。いじめ加害(※)生徒の親はPTA等の団体役員を務めていたというから、これは「古くからの住民」であるはず。
  ※報道が事実ならば、犯罪加害と呼ぶべきであろう。「いじめ」という表現は本質を晦ます。誰がこんな表現を編み出したのか。

 もともとの属性が異なることが生徒間対立の遠因ではないかとも思われるが、それ以上に重要なのは「公立小中学校とその先生は『古くからの住民』を優先しがち」という習性である。筆者は、この公立小中学校の先生の習性を、自分自身と子の二度に渡って実体験する羽目になっている( 過去記事Ⅰ )。また学校という場でなくとも「古くからの住民」が世論を主導する場面は、それこそ何度も経験してきた。これに一般性があるかどうかは知らぬ。しかし、筆者は「先生・教師とはそういうもの」と確信している。

 公立小中学校という世界において、「新住民」は「古くからの住民」には抗いがたい。人数によほど大差がつかない限り、「古くからの住民」の発言力は圧倒的に強い。学校・先生が「古くからの住民」を尊重するというのは、学校を穏健に運営する観点からすれば実は理にかなっていたりする。残念ながら「新住民」にとって学校も先生もまったくあてにならない。

 TVで放映された記者会見を見る限り、教育委員会と校長には当事者意識皆無、としか評せない。まして滋賀県である。行政が何もせずとも、人口は増え、産業が根づいてきた経緯がある。世間の荒波に揉まれることなく安穏と過ごしてきた人材に、今日的な有能さを求めても無理というものではないか。

 これは事なかれ主義とも違う。記者会見から感じるのは、教師という職に就いたことで特権階級に封建されたと心得違いし、努力も成長もやめて停滞した、役立たずな無能者の姿である。かくも無為無策な人物を筆者は嫌悪する。

 さらにいえば無神経でもあり、想像力も欠如している。子(同級生)の自殺という最も深刻な状況に至ったというのに、「古くからの住民優先」といういつものロジックが家族(中学校の他の生徒)に受容されると、本気で信じていたというのか。行き過ぎた無能はそれじたいが罪である。

 「新住民」にとって、こんな先生や学校を仰がなければならないとは溜まったものではない。筆者も「新住民」の一人として、自殺した生徒及びその家族に深く深く同情する。また、かくも当事者意識がなく能力もない学校と先生を強く厳しく批判し、かつ糾弾せずにはいられない。

 加害生徒及びその家族の言動とあわせ、憤激を覚えずにはいられない。伝え聞く限り、加害生徒とその家族の言動は傲岸不遜きわまりなく、さらには語るに落ちる類の狡猾さをも感じる。彼らは厳格に裁かれなければなるまい。





■尻馬に乗る人々

 一連の報道でさらに不快を覚えるのは、報道そのものだ。報道の意図に、社会正義実現の観点があるようには見えない。 過去記事Ⅱ で記したように、視聴者・読者の食いつきがいいからネタにしているだけではないか、とすら思える。

 さらに浅ましいのは、事件から 9ヶ月経ってようやく家宅捜索をかけた滋賀県警である。これまた社会正義実現の観点があるとは思えない。むしろTVカメラに映ることを目的としたスタンドプレイではないか。

 世間に着目されなければ、報道も滋賀県警も何もしなかったであろう。最初から自分の為すべき仕事をしろ、といいたくなる。





■娯楽に堕す

 上記の幣は、報道や警察だけにとどまる話ではない。

 ここ数日間だけでも本件に関するネット上の書きこみは急増した。筆者にせよ、敢えて記事を書きこんでいる一人にすぎないのだが……。

 彼らは何故かくも精力的に書きこむのか。

 例えば筆者宅では、妻が「社会正義実現のためだ! 正義は勝つ!」と獅子吼しており、おそらく本気でそう思っている様子だが、良かれ悪しかれ本当の内心に気づいていない面がある。妻は実は、典型的日本人の行動原理に従って動いているにすぎない。

 端的にいえば、加害生徒は絶対悪として扱われている。現時点では推定無罪であるにも関わらず、もはや確定有罪扱いされている。確定有罪を批判する限りにおいて、批判者は「絶対正義」という安全地帯に立つことができる。典型的日本人は無口かつ寡黙で積極的な意志表示をしない。それは意志表示を抑圧されているからで、検非違使の立場に自らを置けるとわかった瞬間、堰を切ったかの如く意志表示する(相手を喧々囂々と批判する)浅ましい人種でもある( 過去記事Ⅲ )。

 極端な表現を敢えて記さなければなるまい。批判者は「絶対正義」を錦の御旗として、「加害生徒批判」という娯楽に参加しているだけ、即ち、安心して意志表示できる機会を楽しんでいるだけなのだ。……このように話してみたら、妻は頑として認めなかった一方、長男坊は「わかる!」と納得した。これは理非善悪とはいえない。長男坊はブログを運営しているから、ネット上の熱狂現象に対して正直な感覚を持てる、ということなのだろう。



 筆者はデータの客観性、理論の確かさと一貫性などを以て、意見の正しさを主張する。自分の意見が正しいと確信しているからこそ、間違った意見に対しては決して容赦せずに批判する。現実世界において筆者は論文の査読者を務めることもあるから、筆者の発想法は一定の評価がされているとも自負している。

 しかし、筆者において自分の意見が正しいと主張する際に、上記の浅ましさがないかと問われれば、率直にいって自信がなかったりする。確かに自分は正しいとしても、正しさを振り翳す行為に邪心がないとまで言い切れるか。なんとも怪しい限りで、人間なんらか達成してもそれに安住してはいけないと痛感する。





■絶対正義の憂鬱

 筆者は近頃、内省・内向する機会が多く、「自分はそうなんだ」と気づきを得る機会がそれなりある。これは人生における偶然的な必然であって、普通は自らを省みる機会など少ないはずだ。先ほどの妻の例を引くまでもなく、人間は自分の個性や人格に無自覚なのが通常だ。

 だからこそ、困ったものなのである。

 例えばいま原発再稼働に反対している人々のうち、思想信条から行動しているのはごく一部にすぎず、圧倒的多数が反原発という「絶対正義」を手に入れたつもりになっているだけではないのか。たまさか「絶対正義」と万人に認定されやすい旗印に飛びついただけではないのか。動機は反原発なのではない。日頃抑圧されている意志表示を解放しているにすぎないのではないか。

 さらに救いがたいのは、当の本人たちが、自らが掲げているのは「絶対正義」であると無邪気に信じ切っている点にある。「絶対正義」に陶酔するあまり、それを主張する内面的動機に無自覚でありすぎるともいえる。癌首相の愚行( 過去記事Ⅳ )も、デモで絶叫している人々も、根底で実はつながっている。日本人は上も下も右も左も承認の欲求にとらわれすぎてはいまいか。

 念のためいえば、加害生徒もその批判者も紙一重で同じようなもの、などと大江健三郎の如きナルシスティックで甘ったるい主張をするつもりは毛頭ない。悪事を実行出来る者とそうでない者との間には懸絶した隔たりがあり、決して同じではありえないのだ。悪事を実行した者は裁かれ、罪あらば罰せられるべきである。それを前提してもなお、「絶対正義」に依らなければ意志表示できない日本人の群のなかで、如何に合意形成していけばいいのか。行手を阻む断崖を前にして立ちすくむ心地がする。

 さらにいえば、承認の欲求が満たされない不満が爆発し、革命(下克上)が起こる可能性もある。その盟主は橋下徹か? かくして日本は「決められない国」「無為無策の国」へと真っ逆さまに堕していく。



 筆者は、誰も指摘しえなかったことを明らかにするのが、自分の使命だと信じている。その意味において、この記事は以前からうっすらわかっていた事象を編集したにすぎないのだが、なんとも憂鬱な気分を覚えざるをえない。





■付言

 筆者は近頃、教育に関する本を読む機会が増えた。いま読んでいる本はこれ。

   どうする学力低下——激論・日本の教育のどこが問題か(和田秀樹・寺脇研)

 本書を読むと猛烈に腹立たしくなる。ただし、書いてある内容が腹立たしいのではない。本書に記録された和田・寺脇両氏の発言は、おそらくほとんど全てが正しい。教育制度の問題も、いじめ対応の具体的方法も。そして、本書が公刊されたのは平成12(2000)年12月なのである。実に12年も前という事実に、呆然とせざるをえない。

 正しい意見が12年前に発せられているというのに、しかも寺脇氏は文部省大臣官房政策課長(当時)という第一線の当事者だというのに、この12年間、いったいなにが為されてきたというのか。

 日本人の、日本社会の、無為無策ぶり不作為ぶりは、病膏肓に入る領域なのではないか。それゆえ、猛烈な腹立たしさを覚えてしまうのである。

 前述した教育委員会・校長は、さらなる論外のポジションに位置している。少なくともこの12年間、研鑽どころか情報収集ていどのことでさえしていたのか。無能者という以前に怠け者である。この種の人物は、疾くに社会から退場してもらいたいものだ。もっとも、迂闊に社会から排除すると、今度は年金・生活保護者として社会にぶら下がるから、さらにたちが悪いのだが。





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