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能登の城・砦・館
〜No.1〜

 ● 末吉城跡 (現志賀町末吉)
 米町川と於古川の合流点を望む城山(53.8m)にあり、笹山(ささやま)城・篠山(じょうやま)城・堀松城と称され、山麓部の堀松には居館とみられる館前(たちまえ)の地名がある。山頂からは旧福野潟一帯と日本海が眼下に望める。
 城域の範囲は、ほぼ500m四方で、本丸跡・馬駆場など5ヶ所程度の平坦面(郭)があり、本丸跡の背後には大規模な空堀(幅約25m・深さ約3m)を備える。 穴口村旧記によると、本丸跡は東西40間・南北32間ほどで、深さ約8尺の井戸があり、東に並んで長さ70間・幅4間の馬場とみられるものが付設されていた。 なお本丸跡の空堀の一部は国道建設と土取りのため崩された。
 「能登志徴」によれば城主は河野肥前守で、越後上杉勢の七尾城攻略の際に、当城も攻められ、落城したという。また能登畠山氏家臣・手筒某とし、遊佐氏(畠山氏重臣)の反乱に加わって城を失ったとする伝えもある。

 ● 得田城跡 (志賀町館開)
 遍照(へんじょう)岳(146.7m)と眉丈山(びじょうざん)系の間に形成された小盆地の南辺に突き出した丘陵先端部で、通称・城山(約58m)にあり、別称・館開(たちひらき)城ともいう。 得田氏 の居城である。
 空堀によって区画された3つの平坦面(郭)からなり、最頂部にある主郭は東西38m、南北28mで尾根沿いに段をなして二の郭・三の郭と連なる。主郭平坦面の南側には長さ約23m、幅約3m、高さ約1m土塁を築き、さらに長さ約50m・幅約10m、深さ約4mの空堀で南方尾根筋と区切るが、一部に土橋を堀り残す。主郭西側斜面には7条の竪堀もある。
 一方、得田氏の居館跡は城跡から北東方約1.7km離れた徳田の集落と重なる低台地上、通称・館(たち)にあり、付近に馬場跡や刑場跡などの地名を残す。もとは一辺約70間(約126m)の略方形だったと伝えるが、現在は土塁の一部が残るにすぎない。
 なお館開の地名は、得田氏の館を開いたことにより起こったと伝え、館開には「大館(おおだて)」・「館(たち)の腰」の小字もある。こうしたことから居館ははじめ館開にあって、のちに徳田に移ったとする説もある(志賀町史)。
 得田氏は、羽咋郡得田保の地頭で鎌倉の御家人でもあったが、南北朝時代には能登守護吉見氏に属した有力国人であり、室町・戦国時代には能登畠山氏に属し、さらに江戸時代に入って加賀藩長氏家臣として存続している。なお徳田の丘陵上、標高150mの通称・城ヶ平(じょうがひら)を徳田城跡と伝えるが詳細は不明。

尾崎城跡 (羽咋郡富来町)
 康安元年年(1361)、細川清氏が将軍足利義詮に抗して南朝方に走ると、足利直義派の越中の桃井直常もこれに呼応、さらに桃井直常に属する富来斎藤次が 木尾嶽城 によったが、同2年5月に討ち取られている。この戦いまでの準備で、一緒に出城として尾崎城が築かれたようだが、木尾嶽城と同じ頃、攻略されています。


  金丸(かねまる)城跡 (鹿西町金丸 沢)
 眉丈山系の邑知潟地溝帯及び邑知潟に望む中腹部、通称仏性山に所在するたけ、仏性山砦とも称される。平坦面(郭)など遺構群の存在は知られるが、詳細不明。
 観応2年(1351)1月、 得江石王丸 代の長野季光が守護桃井義満に具申した軍忠状(得江文書)によれば、同元年(1350)12月13日、足利尊氏の守護方が、楯篭る当城に越中から乱入した足利直義党の桃井直信勢が攻め寄せ、攻防戦を展開した。
 応安2年(1369)4月28日、越中の前守護桃井直常勢が能登に侵攻した際にも羽咋郡周辺の武士達は守護方に参陣し、鹿島郡の金丸・能登部(のとべ)両城に立て篭もり、6月1日まで桃井軍と戦闘を繰り返した。当城の大将は吉見氏頼で、羽咋郡得田保(現志賀町)の地頭得田章房らが従った(同年12月日「得田章房軍忠状」得田文書)。
 天正8年(1580)3月から6月にかけて、七尾城に拠る温井景隆・三宅長盛兄弟らは、羽咋郡福水(現羽咋市)の丹治山福水寺を本営とする長連龍と対峙した。邑知潟を挟んで当城に温井・三宅一党の陣営が置かれ、城将として八代肥後・古浦屋新助らが配備された。やがて6月9日、八代勢600余騎が当城を出て、邑知潟に兵船を浮かべ、長方の前線基地にあたる横大道筋の鉢伏砦(現宇ノ気町)の攻撃を企てると、長方も反撃に転じ邑知潟縁辺の菱脇浜(現羽咋市)で激戦が演じられた。その結果、八代肥後以下の温井・三宅方将兵600余人が戦死し、当城も長軍に攻められ陥落したといいます(長家譜)。
 金丸城は特定の武士の居城というより、南北朝以来守護方が口能登における合戦時において、臨時に軍事拠点として利用した城砦と考えられています。

 能登部城跡 (鹿西町能登部)
 能登部城は、辻本吉左衛門家後方の山頂付近にあったと伝えられる。南北朝内乱期における守護吉見氏頼方の城郭で、応安2年(1369)4月28日、南朝方の越中の桃井直常勢を迎撃するため、羽咋郡周辺の武士が守護吉見軍に属して能登部・金丸両城に楯篭もり、6月1日まで合戦が繰り広げられた。能登部城の主将は守護一族の吉見伊予入道で、羽咋郡志雄保(現志雄町)の地頭得江季員らがこれにしたがった(
同年12月日「得田章房軍忠状」得田文書)。

 ● 斎藤氏館跡 (鳥屋町春木)
 守護畠山氏の譜代の被官斎藤氏の館跡で、林照寺境内に比定される。二宮川の西岸、田鶴浜往来を扼する地点に位置し、南側に空堀・土塁と見られる遺構が残る。一帯は通称タチと呼ばれ、門前の水田には「殿の前(どうのまえ)」の地名もある。館跡に近い小字・「西の前」の水田から昭和30年(1955)中国銭約9万枚の入った珠洲古陶大甕が出土し、館跡との関連が注目される。
 平凡社の「石川県の地名」では、斎藤氏の能登への来往は、応永15年(1408)に管領畠山家の庶流として能登守護畠山匠作家が創設されて以降、管領家の有力被官の斎藤氏の一族が分家して能登守護にしたがったためと思われる、と書かれている。
 しかし「鳥屋町の史跡と文化財めぐり」では、別の説をあげる。嘉元3年5月7日に現れる鹿島郡東方地頭職斉藤胤成も利仁流の御家人であったという。彼には長男茂成と次男真将がいたが、建武2年に兄弟2児間に領地相続の争いが生じ、2名は夫々南朝方と足利尊氏方に分かれて戦い、尊氏側に与した真将が残り、兄の茂成は南朝国司・中院定清らと共に石動山の戦いで敗亡した。しかhし真将の領地は新守護の意図によって父祖の遺領よりも縮小され、換地が行われ一青庄が与えられたが、憤懣のうちに世を去ったという。その子孫が一青庄の春木村に館邸を構えたのが、本件の平城造りの館跡と述べている。
 ただどちらの説であるにせよ、応永34年頃に、珠洲郡若山庄の代官3人のうちに斎藤新右衛門尉が見え(「斎藤新右衛門尉書状」九条家文書)、永正9年3月には、一青(ひとと)庄(鳥屋町一青)に斎藤某が関与していた(「元長卿記」)記録が見える。
 「朝倉始末記」によれば、永正元年(1504)9月13日の夜、越前朝倉氏の内訌で惣領の貞景に敗れた一族の元景が「能州ハル木ノ斎藤申処」に落ち延び、翌年4月4日に病死した、とある。斎藤氏館跡の最後の主人公といえよう。

 勝山城跡 (鹿島町芹川)
 石動山系から北西邑知潟地溝帯に向けて派生する屋根筋に広く遺構群が分布し、東西両側は濁川と大谷内川の川谷によって画されている。城域の最頂部は、標高240mはで途中で二股に分かれた尾根筋に郭群が、連なり、麓部に近い100mラインまで遺構の存在が確認されている。遺構群は、A−C3群に分かれ、総計約40ヶ所の平坦面(郭)とそれに付随する空堀・土塁・腰郭などが分布し、連なる遺構群の総延長は1Km以上に及ぶが、その遺存度は良好である。
 永禄元年(1558)3月28日の加賀の真宗大坊主の鳥越弘願寺明勝書状(安誓寺文書)に、「勝山落城」とみえ、甲斐の武田晴信と結ぶ真宗坊主本光寺・西念寺らが牢籠の身となった。
 弘治元年(1555)9月頃、戦国大名能登畠山氏の重臣であった七人衆のうちの温井続宗・神保・三宅総広・三宅綱堅が畠山一族の畠山晴俊を擁立して反乱を起こし、以来約3年近くの間、当城を拠点に、能登口郡から奥群西域周辺で占領地支配を続けていたが、七尾城の大名畠山義綱方の反撃によって陥落した(
鳥越弘願寺明勝書状(安誓寺文書))。その際、晴俊方は、甲斐の武田氏や加賀・能登一向一揆の支援を受けており、当城における占領地支配には在地代官の配置や諸役の免除、兵糧米の収取・管理などを通して統一的な知行表示(貫高制)を試行するなど、積極的なものが見られた。
 能登の弘治の内乱にあって長期にわたり反乱勢力の政治的・軍事的結集の拠点として重要な位置を占めていた。落城後の永禄元年7月12日にも再度能登に侵攻した温井氏・三宅氏らが、与党の奥能登の真宗大坊主阿岸本誓寺(現門前町)に、その知行分についてかつての勝山在城時と同様、諸役を皆免する旨を伝え、招誘工作を図っていた(「温井綱貞等連著状案」本誓寺文書など)。
 また天正12年(1584)9月上旬越中の佐々成政の命を受けた守山城(現滋賀県守山市)の城主神保氏張が前田利家攻略のために能登に進入し、勝山の古城跡に要害を構えて武将の袋井隼人を配置したという。このため七尾方の前田安勝らが同城を攻撃したが、容易に陥落しなかった(三州志)。しかし9月11日、佐々勢が、羽咋郡末森城(現押水町)の囲みを解いて撤退すると、七尾の安勝方が荒山と勝山に拠る佐々勢を攻撃したため、袋井氏らをはじめとする守兵は勝山城を捨てて越中に引揚げ、七尾方は同城を接収した(「羽柴秀吉書状」意編類纂)。しかし荒山砦には依然として佐々勢が残存していたらしく、10月26日、前田利家は、勝山口に高畠織部を派遣するなどして佐々軍の退却を監視していた(高畠文書)。

 
荒山砦跡 (鹿島町原山)
 石動山の南西方約2.5km、荒山峠の北約0.8kmの屋根上標高486mに位置し、「桝形山」の城跡とも称する(能登志徴)。邑知潟地溝帯などへの眺望は極めて良い。詳細な分布調査は行われていないが、丘頂部に一辺約250mの広大な平坦面を持つ単郭式とみられ、中腹部にかけて小規模な郭群が認められる。
 天正10年(1582)8月16日の佐久間盛政書状(温故足徴)に「新山与申古城」とみえ、石動山合戦で金沢から前田方の救援に赴いた盛政によって当砦に追い込められた温井氏・三宅氏らは、一人残らず討ち取られた。この石動山合戦は、石動山衆徒が当時越後にあった温井景隆・三宅長盛一党に対して、織田信長の死を契機に能登への入国を促し、前田利家への反乱蜂起を勧めたことに始まるという。
 温井氏らは、6月23日の夜半に石動山へ登り、衆徒らと謀って荒山に要害を構え始めた。 一方その報に接した前田利家は、盛政の助援を得て、密かに石動山と荒山峠の境にあたる柴峠に、陣を進め、荒山砦の普請作業に赴く温井・三宅勢4300余人を急襲した。
 不意を衝かれた温井勢は当砦に立て篭もったため、佐久間勢は砦に攻撃を加えた。
 温井景隆・般若院快存らは砦に拠って防戦に努めたが、攻勢に耐えかね石動山に退く者が続出し、やがて大将の景隆らも相次いで討死にし、荒山砦は陥落する。次いで利家は、石動山を攻略し、堂塔を焼き払ったため全山は焦土と化したという(太閤記・荒山合戦記)。荒山砦の陥落と、石動山炎上の時期について戦記類は6月26日とするが、実際は1ヶ月遅れの7月26日のことであった(「笠間権兵衛書上写」秘笈叢書)。
 なお「古城」(佐久間盛政書状)とあるから、砦は以前からすでに存在していたことになるが、構築の施主や時期については、七尾城主の能登畠山氏が上杉謙信の乱入に備えて天正5年に築城したとの説や、それ以前に石動山の衆徒が砦として築いたとの伝えもあって、詳細は不明である(能登志徴)。
 (参考) 枡形山城跡探訪記

 
石動山城跡 (鹿島町石動山)
 石動山頂大御前(565m)の南東方尾根上にあり、梅宮跡の鞍部を挟んだ丘頂部(519m)に位置する。主郭を中心に、東西約250m・南北約150mの範囲に遺構群が分布し、約40×32mの主郭は三方に幅約5mの空堀と腰郭をめぐらし、付随する小郭とともに遺存度は良好である。また大御前や七尾市の多根口に通ずる尾根筋には大規模な空堀を堀ろ防御を固めている。
 天正4年(1576)越後上杉勢力の七尾城攻略の際に背後を抑えるために築城し、直江大和泉景綱を守将として置いたと伝える。

 ● 田鶴浜館跡 (田鶴浜町田鶴浜)
 旧内浦街道東側の得源寺坂上方、金岩山にあったとされる長連龍の館跡。「役所の高」と呼ばれ、「やくしょんたか」ともいう。「長家譜」によれば館の建設は天正年間(1573-92)末と推定され、慶長11年(1606)連龍は如庵と名乗り、当地に隠退したといいます。寛文11年(1671)頃まで能登半郡の長氏の本拠となった(「田鶴浜町史」)。御旅屋とも称する(「長家家臣団住宅配置図」小原家蔵)。
 長氏は、文治2年(1186)能登郡の地頭として能登に入国したと伝える長谷部信連を祖とする。天文15年(1546)8月、長連龍が穴水城(現穴水町)で生まれ、長じて宗セン(センは、「喘」から口偏を除いた字+頁)と名乗り定連寺(現中島町)や孝恩寺(現七尾市)の住職となった。
 天正5年上杉謙信勢の七尾城侵攻の際に還俗、落城後、長家21代当主となり、織田信長に加勢して上杉勢と戦った。その功により天正8年9月1日信長から能登半郡を与えられた(「織田信長朱印状」長文書)。
 長氏は前田利家の与力となった後も与力地として知行した。鹿島半郡とは、ほぼ北流する二宮川の左岸をさすと言われるが、文禄2年(1593)の鹿島半郡高帳には右岸の村も若干みられる。同帳によると58ヶ村・29,483石余(うち川尻村307石余は預所)。
 元和5年(1619)4月2日の長連頼知行目録(加賀藩農政史考)では31,000石となる。同年23代連頼のとき、金沢在住家臣団筆頭家老加藤采女正と鹿島半郡在地家老浦野孫右衛門との間に確執があり、寛文5年の半郡領検地実施計画を機会に、浦野孫右衛門に同調する久江村(現鹿島町)十村道閑を中心として半郡内十村や肝煎の反対運動が起こった。 浦野騒動 と呼ばれ、加賀藩主前田綱紀の裁許で浦野一党が処刑されて落着した。 元和11年(1625)連頼の死去に伴い半郡は加賀藩直轄領となった。元文5年(1740)には十村相談所が置かれ(鹿島郡誌)、文政2年(1819)御郡御出役所が建てられた(末世目覚草)。
 明治5年(1872)丘陵の下方に七尾県管轄第16区役所が置かれ、昭和39年(1964)地中約50cmの地点から礎石6個を発掘、配置から考えて間口4間の庁舎と推定される(田鶴浜町史)。


 ● 木尾嶽城跡 (富来町貝田)
 富来川と支流広地川との合流点に位置する通称城ヶ根山にあり、山頂からは富来川流域や日本海・高爪山を一望することができます。山頂部に本丸跡と伝えられる平坦部があり、他に二の丸・馬場跡・兵舎跡・殿様池などの地名が残ります。貞和2年(1346)5月日の得江頼員軍忠状(得江文書)に、「富来院内木尾嶽」と見え、同年3月6日、一族の八条殿ならびに新田貞員・栗沢政景・富来俊行以下を率いて能登に乱入した前越中守護井上俊清は、木尾嶽城を占拠し籠城した。これに対して能登守護吉見頼隆の子氏頼を大将とする得江頼員・長野季光らの軍が越中より帰国し、同16日には木尾嶽城を攻撃し、18日に大手に押し寄せるなどの合戦を繰り返して、5月4日ついに落城しています。しかし富来俊行はその後も富来院内に勢力を保持していたと考えられ、観応元年(1350)11月3日、足利直義派に属する越中守護桃井直常と結び、富来員から鹿島郡花見槻(鳥屋町)に出撃しています(観応2年正月日「長野季光軍忠状」得江文書)。康安元年(1361)10月細川清氏が将軍足利義詮に抗して南朝に走ると、越中の桃井直常もこれに呼応、直常に組する富来斎藤次は木尾嶽城に拠ったが、同2年5月に討ち取られています。(同年5月28日「足利義詮御教書案」尊経閣古文書)。城も7月に陥落しています(同年8月1日「足利義詮感状案」尊経閣古文書)
 ● 富来城跡 (富来町八幡)
 富来川下流右岸、領家町村の北東に八幡村が昔あり、その村のさらに北東丘陵上に、天正5年(1577)上杉謙信の臣・藍浦長門が拠ったという富来城があったと伝えられています。別名岡野城ともいいます。天正8年には、織田信長の家臣福冨行清も拠ったといいますが、詳細は不明です。
 ● 多茂城跡 (鹿島町武部)
 石動山麓に位置し、この武部村を名字の地とする武士に、寿永2年(1183)4月木曽義仲に味方し、越前燧城合戦で平氏方として戦って破れた武部某がおり(覚一本「平家物語」)、天正元年能登畠山氏の家臣として「武部殿」が見えます。しかし当地における武部氏の活動は不明であり、わずかに当地に所在する多茂城跡が、武部判官師澄の居城であったと伝えられるのみです(三州志)。
徳丸城跡 (鹿西町徳丸)
 能登貴船神社背後の清四郎山(獅子山)の断崖上に徳丸城跡がある。天正12、3年頃、長連龍が居城したといい(加能郷土語彙)、その子連頼も時々訪れたという。また「古事談」に長連龍が菱脇合戦で、勝利を得て半郡を領有し、「能登部村上ノ山に御取立て有て徳丸城と云ふ」と見えます。のち領所(算用場)が置かれた(能登部町誌)。断崖上を「一の丸」といい、その尾根伝いに「火の見」・ばせんば・調度・ふろ屋敷・御旅屋(おたや)などの遺名がある。

麻ヶ嶽砦跡 (鹿島町久江(くえ))
 久江の東方山中の通称・麻ヶ谷(まかたん)にある。ただし麻ヶ嶽砦は「あさがだけとりで」と読む。弘治3年(1557)温井景隆が築き、後に長連龍により陥落させられた。天正4年上杉謙信が七尾城に対抗し上条織部を配したという。一説に地元豪族鈴木源内の居所と伝える(鹿島郡誌)。
小竹砦跡 (鹿島町小竹)
 天正8年(1580)6月の羽咋郡菱脇(現羽咋市)の合戦に際し、勝利の余勢をかった長連龍軍が、敗北した温井・三宅勢の拠る鹿島郡横大道筋の小竹・東馬場両砦にまで進撃したため、小竹砦の守将成田武安らが、これを捨てて逃れた(長家譜)。小竹砦の位は村内の八ヶ平(はちがだいら)の山麓にあって館(たち)・お林(おはやし)と通称され、現在でも大規模な土塁・石積遺構が残されている。天正年間以前には在地土豪の館弥五郎の居館であったと伝えられ、後、館跡が、温井・三宅の城砦に転用されたものという(鹿島郡誌)。
窪田氏館跡 (鹿島町東馬場)
 大永6年(1526)10月書写の気多社年貢米銭納帳んに、西馬場と並んで東馬場とみえ、そこに窪田某が一宮気多社へ260文の進納を請け負っていたことがわかる。この窪田氏は当村に居住した土豪らしく、館跡は天正8年(1580)6月、七尾方と対立する長連龍勢の進攻にあって砦の守将山荘監物らが遁走し(長家譜)、七尾城による温井・三宅方の砦に転用されていた。別名、東馬場砦跡ともいう。
合城(がしろ)跡 (鹿島町最勝講(さいすこ))
 在地(最勝講)豪族の館跡という(鹿島郡誌)。

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