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  能登の民話伝説

 ここに取上げた伝説は、主に「石川縣鹿島郡誌」(昭和3年発刊)など古い書籍に書かれていたものを、私(畝)が、解りやすく書き改めたものです。現在、伝説の対象となっている建物、人物、物などが残っているかどうか、また同様の現象や行事があるか否かは定かではありません。あしからず。
能登の民話伝説(中能登地区-No.4)

<宗教的縁起伝説>
血塗の石地蔵 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 永光寺(羽咋市酒井町:昔は鹿島郡内でした)の大門道は、もと羽咋郡寺境より通じていた道であったが、東街道より4、5町(約4、5百m)行ったところ、下馬石のやや手前の道の傍らに、石地蔵がお立ちになされているが、昔、子供らが弓を作って、雀を追いまわして遊んだあげく、最後には、あのお地蔵様を射てやろうと、いたずらで矢を放ったところ、何と矢がお地蔵様の左の肩先に当たり、血がたらたらと流れ出たといいます。今もこのお地蔵様の肩から胸にかけて赤黒く血潮の痕(あと)が残っているということです。
唐島 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 唐島(中島町)には、巨岩怪石が立ち並び、緑樹枝を交えて天日を蔽い(生い茂った緑が陽射しを遮り)、翠影水に映じ(みどりの影が水面に映り)、斂艶たる海面、あたかも盆石を見るかのような島の中央祠があり、唐島社と呼ばれ、市杵島比咩命を祀っています。伝承では、桓武天皇の治世の時代に、大和三輪神社の宮使の彦九郎というものが北陸の地を巡遊の途中、塩津村(中島町)に足を止めた。ある夜霊夢によって一つの仙島があるのを知り、翌日船に乗って近海を眺めてみると、夢の通り玲瓏な海面に一つの小さな孤島が海から突き出るようにあり、さざ波が岸に打ち寄せ、(※1)瑞雲が天にたなびいていた。
 彦九郎は、宛(さ)ながら仙界に入ったような思いがしたが、白髪の一老女が来て、彼を迎えて言うには「私は古(いにしえ)よりこの島を敷いて、幽事を治め、国を鎮護している市杵島比咩命なり。私は、これからお前にこの島を授け、7つの瑞妙を伝えよう。お前はこの島に住み長く私に仕えなさい」というと、大石の上にて忽然と(ぱっと)その姿を消してしまわれなさった。彦九郎は、村に帰ってその出来事を話し、里人を動員し励まして、荊棘(とげとげのいばら)の木々を刈り、棒のような木々が生茂る莽(くさむら)を拓いて、その霊石の傍らに一つの祠を造営し、その社を唐島神社と命名し、奉仕に怠りなく、その子孫もそれをうけつぎ今日に至ったといいます。姫命(市杵島比咩命)が後世の証として植えられた松を俗に神木あるいは銭掛松といい、周囲2丈あまりもあります。その木は根元から6尺(約1m80cm)あたりのところで、曲がり折れて、樹幹地の方へ下がって地面にもぐりこみ、そこでまた根を生やし、更に地面から抜き出て、6尺あまりのところで、枝が数本に分かれて、その姿ありようは、宛(さなが)ら舞うように誠に稀代(まれにみる)の珍木でありますが、数年前枯れ朽ちてしまったのは、惜しまなければならない事です。
 この島の風景が、絶景であるのことからして神徳(※2)炳焉(神の徳があきらかなさま)で間違いなしであるので、古くから賢人とか名将、その他高僧の、ここの神・市杵島比咩命帰依し参詣しに来た人が多かった。殊に笠師村菅忍比咩神社へ参向の勅使で、本社に参拝し、幣帛を奉った者が多くいるが、桜町大納言のそのような人々のうちの一人である。その人が詠んだ歌に「思ひきや春風さそふ唐島の、さすが昔の名残りありとは」というのがある。

(註)
※1:目出度い時に、その徴(しるし)として現れるという雲
※2:あきらかであるさま
西の宮神 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 昔、七尾町に無関万兵衛という人がいた。妻がある夜、枕元に現れた天神様から「我は府中町杉森某方の倉の中の長持(衣服・調度などを入れておく長方形の蓋のある箱)の底に苦しい思いをしているが、西宮に移してくれ」とのお告げを賜った。「はて不思議な夢だ」と思ったが、あるいは心の惑わされているだけかなと思いなおし、そのまま放っておいた。ところが、毎夜毎夜の同じ夢を見るので、このまま放っておくわけにはいかないと、夫に相談し、夫婦で杉本方を訪れて事の由を話し、家人とともに長持ちを探したところ、枕元にお立ちになった御姿に寸分違わない木像で、蝕(むしば)まれた御神体が居られたので、杉森家の人は大変驚いて、その罪を侘び、万兵衛を資金を出し合い西宮に祀ったといいます。このことがあったのは明治20年頃の事であったといいます。
火の宮の神 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 小竹(鹿島町)下出の鎮守の社であった火の宮(住吉社と合祀しして小竹神社と呼ばれた)は、(昭和3年から数えて)80年前まで尾崎往来(尾崎と小竹を結ぶ道)の田の中の現在の古宮の地に鎮座していました。そこは、数百年を経た老杉が、天を蔽(おお)って陽射しを遮っていおり、それで毎夜狐の嫁取があるといわれているような場所でありました。ある日、火の宮の神が、蝮(まむし)と遊んでいたところ、蝮はその腕に咬(か)みついたので、神様は物凄くお怒りになり、「この社の境内から出て行け」と退去を命じたが、蝮が「これからは、決して神様の氏子を傷つけるようなことはしません」と誓いやっとのことで、その罪を許された。それ以来、この社のの境内に現れる蝮は、人を咬むことがなく、またこの社の祭りの供物は蝮除けのご利益があるといわれています。
 村の惣五郎という者が、田の草取りに行き、お昼の弁当の休憩時の暇つぶしに、社から御神体を取り出して弄(もてあそ)んでいました。そのその時に誤って御神体の右手を折ってしまった。その後数日して惣五郎は、神罰により、右腕を打ち砕かれ一生不自由の身となってしまった、といいます。また火の宮の神が、ある夜、氏子の枕元にお立ちになり「私は田植え歌を聴きたいので、苗代の田が近い「はじかみ」の地に遷(うつ)してほしい」と願ったので、古宮の地から今の地に遷座したのであるといわれています。
御絵像 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 藤橋(七尾市)の山岸某の家の秘蔵の本尊は、覚如上人の筆(描かれたもの)であるといわれ、同家の祖先が覚如上人に帰依した際、形見として賜わったもので言い伝えられています。また、蓮如上人が、越前吉崎在住のみぎり、これを拝見し、随喜(喜びの)あまり名号をお書きになり山岸家に賜わった。その後、実如上人もまたこれらを拝見され、同様に名号を朱の色でお書きになり、三幅一体の異宝(珍宝)と呼ばれています。
 (※1)長享2年(1488)(加賀一向一揆の中心人物の一人)洲崎入道慶覚坊など乱入の際(ただし長享2年に、こういう事実があったか、私が一応調べてみたが不明)には、この宝を奪って越中に持ち去っていましたが、本国に返せとの夢のお告げで、使いによりこれを山岸家に返させたといわれています。
 その後、赤蔵嶽が崩壊した時、(能登島在の)(※2)十村・当麻某の命により、一村挙げて(※3)道普請のため赤蔵に出かけることがありましたが、その留守の間に、出火があり、山岸家も灰燼に帰してしまうことがありました。しかし、秘蔵の三幅は、誰が取り出したという訳でもないのに、背戸の柿の木に懸かり、不思議にも火災を免れたといいます。
 山岸家が衰えると、一時、急場しのぎに幾度かその家宝を、質入りさせましたが、その都度いつの間にか山岸家に帰り、厨子の中に懸けられていたといいます。その後、同家の困窮はさらに甚だしくなり、土地も住居も維持しがたい困難な状況に至ると、やむを得ずこの秘宝を知り合いの家に預け、ひとまず家をたたんで、江戸に出てみました。が、思ったようにうまく事も運ばず、その翌年の秋、帰国の途につきました。そして、まさに藤橋の郷に入ろうとする前夜、夢ともなく某のその名を呼んで言うには「お前はどうしてそんなに不信心なんだ。我れはお前を、長いこと待った。・・・・・」との声がありました。
 それで、山岸家の当主であった某は、感涙に咽(むせ)びながら未明、かねてその宝を預けておいた知人宅を訪ね、前夜の不思議を語ったところ、その家の主は、合点したかのように、はたと手を打ち、「前夜一人の僧が現れ、長い間ご馳走にあずかってきたが、ただいまを持って帰るとしよう」とのお告げを私も受けた、と。
 両人は、お互い驚きながら、ご本尊はどうなっているのであろうと、その箱を開いてみると、不思議なことに影も形もない。山岸某は、急いでかつての家に帰ってみて、仏壇を開いてみると、三尊とも御厨子の中に懸けられているのでありました。某は今更ながら、目の当たりに奇瑞(縁起のいい前兆としてあらわれた不思議な現象・奇跡)を拝して、村の人々と共に(※4)随喜渇仰の涙にかき暮れたといいます。

(註)
※1:長享2年:「石川縣鹿島郡誌」の本文では、享長2年となっているが、そういう年間はない。長享2年なら、この年、一向衆が北加賀守護・冨樫政親を高尾城に包囲し、自害・陥落させた一番一向一揆が盛んだった年である。
(参考)私のHPの別のコーナーのコンテンツ 「蓮如の布教・一向一揆・能登への伝播」 及び 「光徳寺と冨樫家と一向一揆」
※2:十村(とむら): 加賀藩は、農政機構として、寛永年間頃加賀藩ですでに出来上がっていた十村肝煎−村肝煎の体制を利用し、慶長9(1609)年、侍代官を廃止し、十村を代官に任じました。そして一部の者に扶持を与え、鑓・馬の使用あるいは苗字・帯刀の使用を許した。つまり十村とは、十ほどの(十とは限らない)村を管理監督する大庄屋兼代官のことである。
※3:道普請:赤蔵山の山道には能登島の人が整備したという石段が今も残っている。藤橋の山岸家が、なぜ、能登島の十村・当麻の命令を受けたか不明。まあその辺は伝承ということで、詮索しないでおきましょう。>(^Q^)
※4:随喜渇仰の涙:「随喜(ずいき)」は、人の善事を見て、これに随順し、歓喜すること。転じて、心から有難いと感謝すること。「渇仰(かつごう)」は、神や人の徳を仰ぎ慕うこと。
鹿渡島 
    参考:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)

      (日本の民話21)「加賀・能登の民話」(清酒時男編)
        「穂にいでず、つっぱらめ」(坪井純子著・七尾市立図書館友の会発)他
 鵜浦(七尾市)鹿渡島に住職もなく檀家もいない小さなお寺がありました。観音寺といいました。文武天皇の御世に、一角をもった五色の霊鹿が、その頭上に日輪のように輝く宝玉を戴(いただ)いて、この島に渡ってきたといいます。
 その頃、(※1)役の小角(えんのおずぬ)が、人々の信仰を集め、また大和朝廷の支配に属するのを嫌った山の民などから支持されると、朝廷はその勢力を恐れました。大和朝廷からのスパイとして送り込まれたらしい弟子の裏切りで、小角の母が人質とされると、小角も朝廷には逆らえず、伊豆に流されることになりました。鹿渡島観音堂

 しかし彼は、修行のお陰で鳥のように自由自在に飛行出来たので、伊豆に流されても毎夜諸国を巡行していたといいます。小角がある夜、いつものように飛行していると、火柱が天高く昇っているのが見え、よく見ると虹の形のようである。小角は、光を趁(お)ってやってきてみると、能登のとある岬の丘の上あたりまでくると、急にその火柱がふっと消えました。
 丘の下を見ると、岬の直ぐ先、数間ほどのところ離れて浮かぶ小島の崖中に、夜とはいえ、まことに不思議な鹿が見えました。一角で五色(赤・青・黄・紫・緑)で彩られ、頭上には、日輪のごとく輝く玉を戴きいていました。
 その神々しい尊厳さといったら例えようもなく、ひとりでに小角は大地にひれふし拝んでいました。ところが暫らくして体を起こすと、鹿の姿が消えていました。夢を見ていたのかと思いましたが、そうでもなさそうなので、小角は丘を駆け下り、島に渡ってあがってみました。
 すると島の真ん中に御丈一尺二寸ほど(約30〜40cm)の八手観世音菩薩神像が莞爾として鎮座していました。
 小角は、それでここに観音菩薩像のために、お堂を建て、そこにこの神像を安置しました。それからまもなく不思議なことに、毎夜どこからとなく青龍が現れて燈火を捧げたといいます。
 このような訳で、近くの鵜ノ浦の村人たちは、この観音様を以後非常に大切に崇めたといいます。

 ある年のことでした。観音様を深く信仰していたある漁師が沖に漁へ出かけた後、急に天候がくずれ、大嵐になりました。一寸先も見えない状況となり、舟は次第に遠くへ流されていき、最早これまでと諦めめかけた時です。
 ある方向から「こっちへ来るんだ。こっちへ来るんだ。」と誰かの声がします。
振り返ると、一条の燈が点っているのが見え、漁師は「はては観音様がおらを導いている。」
と有難く思い、そっちの方向へ必死に櫂(かい)を操りました。すると不思議にも、その一条の光に向かう進路だけが波一つありません。漁師は島へたどり着くと、うやうやしく観音様を伏し拝み感謝しました。そしてその事を村人に告げました。村人は、海の守り仏として、一層手厚く祀るようになったということです。

 文武天皇は、勅によりそのお堂を龍燈山龍花樹院観音自在寺と号し(名づけ)なさっりました。また後聖武天皇は、北浜鹿渡島観音寺と名づけ(※2)勅願寺となされました。当時の遺物は、度重なる兵火のため悉く失われ今は、観音寺では、観音様とともに、阿弥陀像も安置しているのみです。その阿弥陀像様についてですが、それにはこんな話があります。
 推古天皇2(西暦594)年9月のある晩の事、鵜ノ浦の漁師たちが、村の広場で明日の漁の打ち合わせをしていました。話が決まりかけた時、先ほどまで星が瞬いていたのに、俄かに空が掻き曇り、烈風吹きすさび、猛雨が地を叩くというような荒れた状態になりました。そして、雷鳴轟き稲妻閃(ひらめ)いて、一瞬静かになったかと思うと、突然、広場の真上に一人の白髪の老人が浮かび上がりました。
 「我れは、海底の(※3)魚鱗(ぎょりん:魚のこと)を得度させるために波浪に漂っていて、今この巌島にたどり着いた。速やかにやってきて見なさい」と言って西の空に消えてしまいました。

 村人は大いに驚き、その島に渡ってみると、御丈三尺二寸の阿弥陀如来像(黒色の木像)の尊像が巌上に御立ちになっていました。それからは村人は、安心して海に出られるし、魚も豊富に獲れるし、毎日を安心して暮らせるようになったということです。
 この阿弥陀像は聖徳太子16歳の時の作と伝えられています。足の下には、十六菊花の木彫の薄い板もあります。彫りの手法は荒いが雄健な感じで、推古時代のものとも奈良朝時代のものとも言われています。

(註)
※1役の小角(えんのおずぬ):奈良時代の伝説的人物で、修験道の祖といわれる葛城山を中心に活躍した山岳呪術者。役の行者(ぎょうじゃ)」ともいわれる。人々の信仰を集め、無視できない力を持ち始めると、朝廷は文武天皇3年(699年)に伊豆に配流された。
※2:勅願寺:勅命(天皇の命令)によって国家鎮護・玉体安穏を祈願した寺。国家鎮護は国家の乱れを鎮(しず)め国を護(まも)ること。また玉体安穏とは天皇や貴人の体が事故もなく健康で無事であること。
※3:魚鱗(ぎょりん)::普通は魚の鱗(うろこ)のことだが、ここでは単に魚のことを言っている。
福俵 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 小田中(鹿島町)に「ゆが」と呼ばれた池があって、大蛇が棲むといわれていました。(小田中の小宇である)福田の七郎平という者が、この池を田地にしたいなと考え、一の宮気多神社に祈願しました。それを聞き届けた気多の大神が、ここに現れ、大蛇にこの池から立ち退くように命じ、名剣を振りかざして進みなさると、大蛇は遂に越中に逃げ去っていったといいます。七郎平は、この池を埋め立てて、田地として毎年三斗の米を気多大社に献上していましたが、後年には、籾三升を奉献することとなりました。今なお平国祭の神輿が小田中に駐輿する際には、福田の村民が福俵を奉献しているといいます。
洞谷山と白狐山 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 瑩山紹瑾禅師が、はじめ羽咋郡白瀬豊財院の地に、草庵を結んでいた頃、ある日、白狐が現れ、禅師の袖衣を咥(くわ)えて、何処かへ案内しようとするような仕草を見せました。禅師は、それに従いついていくと、洞谷山に至り、白狐の姿が消え失せると同時に、伐闍多仏多羅者(仏教の守護神?)が現れ、「この地は衆生済度の霊地である。梵刹を建てるよろしくとりはからいなさい」と告げられました。禅師は、この地の相を観て、永光寺を建立したのは実にこの故事に基づいているといわれています。因みに豊財院の山号はといいますと、白狐山と称しています。

(参考)私のHPの別のコーナーのコンテンツ 「曹洞宗の広がりと瑩山派の発展」 白狐林豊財院の説明
蛸神 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (昭和3年の)今を去ること三代ばかり前の頃、祖母ヶ浦(ばがうら:能登島)の人々は、もと梅木谷内というところに住んでいた者達であるが、その地を立ち退いて今の地に移住した折、村の氏神を置き去りにしてきてしまった。その氏神は蛸に乗って向田(能登島)の三郎助の家の前の浜にお着きにななさった。前夜、夢のお告げを受けた三郎助が朝早く浜に出てみると、お告げの通り確かに大きな蛸がいたので、三郎助は、その蛸から氏神様にお降りになってもらい、その蛸を海に放って、氏神を守護してしばらくの間、家に祀っていたました。家に祀られていた際、氏神様が、土間の竈あたりの手水(手洗い又は便所)をご利用になっていたゆかりによって、三郎助の子孫の中屋家では、竈で火を焚く男に限り、特に帯裸(褌(ふんどし))で、腹を温めるなどの不作法は、固くこれを禁じ戒めるといいます。
 後に、祠を建て、この神を祀り、11月3日を祭日としています。また10月17日には、蛸の飯と称して、神職が大きな握り飯を作り、中屋家に送り、中屋家ではこれを近隣に分け与えるといいます。
 その後、同家においては、蛸の捕獲を禁じ、また他家から贈られることがあっても主人はこれを食べることはならぬとされているといいます。向田村には、これまで何度か火災があって、中屋家の隣まで類焼するようなことがありましたが、同家では今だかつてその災厄を被ったことがないといいます。これは、まさしく蛸神の守護のおかげだと言い伝えられ、今ではこの神様は向田地区の鎮火守護神(火除けの神)として崇敬されています。
(参考)私のHPの別のコーナーのコンテンツ 「能登島の蛸祭」
阿弥陀池 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 松百(七尾市西湊地区)の入り江の西隅の山の麓に小さな池がありました。承久元年(1219)に、高野山無量院の玄海法印と越中国の上新川郡千石村の保昌(やすまさ)の二人に、七夜に亘り不思議なお告げがありました。「我は能州(能登)鹿島郡松百村の小池に棲んでいるものである。汝を長い間待っている。速やかに松百にやって来て、我を伴って衆生(世の人々)を、迷いから救うように!」との霊夢をみたのでした。両人は、これは神からのお告げに違いないと思い早速旅立った。ある日両人は期せずして、二宮駅(鹿島町)の兵助の家に同宿したが、お互い同じ夢を見て来た者同士であるとは知らなかった。その夜また、両人とも以前と同じようなお告げの夢を見て起きてみれば、二人とも同じ夢をみたようであった。それで初めて、お互いここまで来た経緯を、語り合い、その奇縁に驚いたのでした。そして共に連れ立って松百に到り、地元の藤四郎などの案内により、その池までやってきたのであった。そうすると夢に見たのと同じように阿弥陀様の尊像が水面に漂い浮びなされていた。両人は、感涙にむせびながら、帰途、再び兵助の家に泊まったが、その家の祖父がまた夢で「(我が尊像を)越中に伴いなさい」とお告げを受けた。そういうわけで千石村にお堂を建立し、高野山無量寺と名づけ、その阿弥陀像を本尊として祀り安置しているということであります。
五十文の受取書 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 およそ(昭和3年から数えて)百年前のことである。小竹(鹿島町)に権右衛門といって、ひとりものの婆さんがいたが、世にも珍しいほどの篤信家(信心の心が篤い人)であった。赤貧洗うがごとし(極めて貧しい)生計の状態であったが、本山(本願寺)へのお取持(献金)だといって、一文二文と少しずつ銭を蓄えていったところ、積もり積もって50文の銭が貯まった。そんな折、近所の人が、本山を参詣するというのを聞いたのを幸い、この志を納めてきて(50文の銭を献納してきて)もらおうと依頼しました。婆さんは、そのお金が、ほんの50文の端金(はしたがね)であったので、受納所に納めないで、賽銭箱に投げ入れてくれ、と頼んだこともあって、その頼まれた人は、50文の金を銭箱に投げ入れて帰ってきました。こうして1、2ヶ月経ったある日の夕方、瑤泉寺の住持が、その婆さんを訪ね「本山より、志納金の受取書が届いた」と言って、一通のの受取書を持ってきて婆さんに渡しました。婆さんは「それはそれは勿体無いこと」とその受取書を押し頂き、貧しいのでお礼に差し上げるものもないが、といって住持に、挽いた蕎麦を煎った粉を差し上げたところ、住持は「これは珍しいもの」と味わわれ、やがてお帰りになった。しかし婆さんは、依頼者にあれほど念を押して、50文は賽銭箱に入れてくれ、と頼んだのに、なぜ受納所へ志納してきたのであろうか、とその翌日瑤泉寺に詣でて昨夜のお礼を言いに行った。住持は、不可解な面持ちで「私は、昨日婆さんを訪ねてもいないし、本山より受取書も届いたようなことはないよ」とのこと。その後、本山に受取書を添えて送り、事の由を申し上げた問い合わせたところ、本山ではそのような冥加金を受け取ったことはないが、その受取書に書かれた文字は親鸞聖人の御手跡に間違いなく、これは「末代の鑑(手本)、奇特の至りである」と言って、そのままその受取書を送り返してきました。その婆さんが亡くなった後、同寺では檀下において、権右衛門講を結び、今も盛んに営まれているということである。
流太子 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 文化5年(1808)の頃である、佐波(能登島)の海岸に毎夜光りを放つものがあった。ある漁師が怪しみ、これを拾い上げたところ、阿弥陀様と聖徳太子の二尊像であった。後に、この二尊像を(七尾市)小島の惠眼寺に安置しました。俗にこの二尊像を流太子と呼んでいるとのこと。
高森 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 大津(田鶴浜町)の高森には、坂本山王(近江国の坂本山王)の分霊を勧請したものです。昔、小柳兵衛丞が近江で疫病に罹り、坂本山王社に平癒(病気が治ること)を祈願しました。ある夜、神のお告げで「病気が平癒したら我を北国の地に祀れ」とあったので、兵衛丞は病気が治った後に、高森の地に、この神を勧請したのでした。その後、悪い疫病が流行した際にも、この神の守護によって大津にはこの病に罹るものはいなかったといいます。
赤蔵の権現 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 昔、三引村(現七尾市田鶴浜町)法円(法圓)という篤信の人がいた。春まだ浅いある日の夕方、法円はただ1人海辺を家路を目指して急ぎ足で歩いていた。法円の家里である三引から出ている小川があった。その小川の水が海に入るあたりの波打ち際に架けた小橋を、今まさに彼が渡ろうとした時、「法円、法円」と自分を呼ぶ声が耳に入ってきた。不思議に思って振り返ってみると、どれくらい離れているかわからない川上の方に、煌々として光り輝く御仏(みほとけ)が、彼を招いているのであった。こうして御仏は波を分けて川を下り、橋に上りなされたが、御仏から「(背)負うてくれ」とお声がかかった思った瞬間に、御仏はすでに彼の背の上に負ぶさっていた。法円は、有難い御仏を背負うという法悦(よろこび)に打ち震えながら、信心深い彼は夢心地で歩んだ。川面を吹く風はやや寒く、瑩々としてまたたく星の下に赤蔵山が黒く絵のように聳えていた。彼の一歩一歩はその麓に近づいていた。5、6丁(約5、6百メートル)ほど上ってきて、彼は橋を渡ろうとしたところ背中から「下ろしてくれ」とのお声がかかった。法円は、橋の上に跪き、神様を下ろされたところ、不思議なことに御仏は流星のように輝く光とともに赤蔵山の頂上を指して飛んでいき、姿を消してしまった。赤蔵山大権現とは、すなわちこの神のことであると伝えられている。田鶴浜の大橋は御仏を背負われになった所で、法円の背よりお下りになった橋を折橋と称し、今も三引にあります。

※別(赤蔵山ハンドブック(田鶴浜町・平成14年8月3日、北國新聞社))の本では、田鶴浜の大橋を「をう橋」、折橋を「降(おり)橋」と記してあり、こちらの方が意味が解りやすい。
土中の曼荼羅 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 昔、神明神社(今の松尾天神社)の向いに「あかま田」と呼ばれた田地があり、本府中(七尾市)の市左衛門の所有地であった。郡奉行がある年の初夢に「余は『あかま田』に埋もれる磐石の下にいる。早く掘りあげてくれよ」とのお告げがあった。郡奉行は、直ちに町奉行に命じて調査させ、市左衛門に掘らせたところ、夢の中で見たように土の中から大きな磐石が現れた(長福寺の大井戸の渡り石が、その磐石であると伝えられています)。ようやくにして磐石を取り除いたところ、土の中から2巻の軸物が現れ出た。これぞ御告げの宝物であると、橘町の西の角に祠を建てて、印鑰様と崇めた。その後、2回の火災に遭ってついに現今の地に奉祀するに至ったのだと。軸は北海道に産するオヒヤウの木皮に類する織地で、両界(金剛界及び胎蔵界)の曼荼羅であるようだった。この二軸は畠山大納言の宝物で、同家没落の際、これを敵の手に渡ることを憂い、密かにこれを埋め隠したものであろうかといわれている。
豊後の石地蔵 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 昔、豊後の藤兵衛という孝行者がいた。石地蔵を崇敬していたが、地蔵尊はその孝行心を愛で、臍(へそ)の穴より白米を出して藤兵衛に与え、これで貴方の母を養いなさいといった。地蔵尊は今は土川の西善寺に安置されています。
伊夜比咩神社の猿鬼退治伝説 出典:妖怪神様に出会える異界(ところ) (水木しげる・PHP)
 能登島の中心集落である向田というところに伊夜比咩(いやひめ)神社という社(やしろ)がある。社伝によれば、その昔「さる鬼という怪物が付近の住民を脅かし住民を悩ませていたそうだ。
 「猿鬼」は、頭に一角のある猿に似た怪物で、人畜を害していた。そこで人々は、伊夜比咩神社の神様にお告げに従い、天子様(天皇)にお願いして、武勇に優れた左大将義直公に下向してもらい、「猿鬼」を退治してもらったという。

 その退治した「猿鬼」の角が、現在も伊夜比咩神社に大切に保管されているという。神社では毎年7月31日の夜、全体の高さが二十数メートルにも及ぶ、巨大な柱松明を立てる火祭りを行う事で知られている。

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