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宮田の法然堂


 
宮田の法然堂 (まんのう町宮田148 西光寺)

なんとここでは「寒くとも袂にいれよ西の風 弥陀の国より吹くと思えば」の歌は法然上人が讃岐で詠んだ歌だといっているではないか。


正面奥が西光寺法然堂


法然堂


法然堂正面の額

「元祖」とはまるで饅頭屋のような・・お寺には似合わない?

六字名号碑 「寒くとも袂にいれよ西の風・・・」の歌
  

法然堂の横に巨大な 六字名号碑 が建っている。そこには「御詠歌」として「寒くとも袂にいれよ西の風 弥陀の國から吹くと思へば」と刻まれている。
しかも碑の左側面には「法然上人御在世の昔を偲び佛恩を報ぜんが為 当処にありて御詠歌ありし事を末世に伝へる為 此処に名号碑を建立す」と書かれている。これはどういう意味か。
「寒くとも・・・」の歌は親鸞作の歌として枕石寺伝とともに有名であるが、ここではこの歌は法然上人がここ(讃岐)で作ったといっているのであろうか。
この碑が建立されたのは昭和47年のようであるから、既にこの歌は親鸞作として世に知られていたはずである。
ちなみに吉原町西碑殿の蛇石内の歌は西碑殿在住の某氏のお姉上の筆跡と聞いているから、蛇石の碑もせいぜい昭和初期以降の建立(某氏の父上が昭和13年頃に建てた、とのこと)であろう。とすれば、両碑ともに、歌の作者として既に世に知られていた親鸞ではなく、法然に結びつけた理由はなぜであろうか。

法然堂の中に掲げられている額


くずし字で読み取りにくいが、次のような内容か。

 法然上人
 此處にいませし
 時に詠(よみ)たまふ
さむくとも袂に
 いれよ 西の風
弥陀の国より
 吹とおもへハ

これはもう「法然上人がここに居られたときに詠んだ」とはっきり言っている。

もう1つの名号碑


話はそれるが、
 「南無阿弥陀仏」
 「帰命盡十方無碍光如来」
 「南无不可思議光如来」
とか「帰命無量寿如来」とかはすべて同じ意味でしょうか。
全部阿弥陀如来を指す別呼称で、「南無」=「帰命」=「お助け下さい」の意味。従って「阿弥陀如来様 お助け下さい(おすがりします)」という意味だそうですね。

インドの挨拶語の「ナマステ」も「南無」と同じ語源だそうで、ナマステは「あなたの中にいる神様に祈る」というような意味で、必ず合掌を伴うのが基本だそうです。
日本からTVのレポーターなどが行って「ナマステ〜」などど手を振って挨拶するのは言語道断ということになりますね。

話は脱線いたしましたが、もしこの歌が法然作で讃岐で作られたのが真実だとすれば、なぜ親鸞が常陸の国で詠んだことになったのだろうか?
法然が四国へ流罪になり赦免になって帰った後、親鸞が師匠の法然に会う機会があれば、「四国でこんな歌を作って布教活動をしたよ」と法然が親鸞に語り、その後、親鸞が常陸の国へ行って布教したのなら、話は合う。たまたま枕石寺の話の方が有名になったに過ぎないと理解が出来る。実際はどうだったのだろうか?

法然と親鸞の時間関係をWikipediaなどから簡単にまとめてみると、次のようになる。

【参考】法然とその弟子親鸞等7人の流罪・・・承元(または建永)の法難・・・ほかに高弟4人が処刑されている。
法然の提唱した「専修念仏」は建永2年(1207)2月 後鳥羽上皇により念仏停止の断が下され、法然は土佐国、親鸞は越後国に配流された。法然は土佐まで行く途中の讃岐国で布教活動を続け、土佐へ行き着くことなく承元元年(1207)12月に赦免されて讃岐国から摂津へ戻った(まだ都へ入ることは許されなかった)。讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、塩飽本島や小松庄(現・まんのう町)等を拠点に布教した。親鸞は建暦元年(1211)11月の赦免後も越後に留まり(豪雪でその冬は都へ帰れず)布教活動を続け(一旦都へ帰ったとする説も)、その後東国への布教活動に出発した。枕石寺伝はその頃のものか。

<流罪後の法然と親鸞の関係>
西 暦和 暦法 然親 鸞
1204元久1比叡山、専修念仏停止を迫る
1205元久2興福寺奏状(専修念仏停止を要求)
1206  
1207建永22月、後鳥羽上皇が熊野詣の留守中に、上皇の女房たちが法話を聞いて出家したのは法然の弟子による密通のせいだとする噂に上皇が激怒して、法話をした住蓮・安楽房ら4名処刑、上皇より念仏停止の断が下り、法然と親鸞ら弟子7人は流罪、法然75歳 →承元の法難(建永の法難とも) 法然は四国へ、親鸞は越後へ
承元112月、法然、赦免、摂津まで戻る。
1208   
1209   
1210承元4法然、まだ摂津に滞在中
1211建暦1法然、入洛の許可。京に入り、吉水に戻る。11月、親鸞、流罪より5年後、勅免の宣旨。しかし冬季豪雪で越後から京へは戻れず
1212建暦21月、法然、京都東山大谷で死去、享年80歳(多数説)11月常陸国、日野左衛門、親鸞を泊めず。改心して枕石寺建立
1213   
1214建保2 親鸞、赦免より3年後、東国布教のため信濃国善光寺から上野国佐貫庄を経て常陸国へ向かう。(その前に一旦京へ帰ったか?)
1215   省略(各地に草庵を結んでは布教)
1216健保4 親鸞、大山の草庵(茨城県城里町)
(少数説)11月、常陸国、日野左衛門、親鸞を泊めず
1217 親鸞、約20年間東国で布教

インターネット上で多数説の、建暦2年(1212)に親鸞が日野左衛門に宿を求めた、というのはおかしい。親鸞はまだ越後にいたのでは? その年の内に枕石寺建立というのもおかしい。日野左衛門の屋敷を寄贈して枕石寺と呼称、ぐらいならまだしも・・・。
少数説の健保4年(1216)なら年代的に矛盾しない。

ところで、親鸞が赦免になったときは冬季の豪雪で京へ帰れず、片や師匠の法然は翌年の1月に亡くなっている。旧暦だろうから、新暦で言えば12月頃に赦免になり2月頃に師匠が亡くなっているので、親鸞は冬季で移動できず、師匠の法然から直接四国での布教状況を聞くことは無理である。
法然が摂津あるいは京まで帰って弟子に四国の話をし、その弟子が春以降に越後まで来て師匠の話を伝えた可能性は残る。その後、親鸞が日野左衛門に一夜の宿を断られたときに、師匠の法然作の歌を思い出して弟子に語ったのか。(親鸞作とするためには、親鸞が法然の歌を伝え聞く余裕がないと思わせるために、枕石寺伝を早める必要があったか?だとすれば確信犯だが・・。)

一方、西碑殿の蛇石にしろ、法然堂の名号碑にしろ、昭和になってからの建立であり、法然の弟子である親鸞の歌が有名になりすぎているから、我田引水、師匠法然の作として取り込んだ可能性は想像に難くない。法然堂が当時の 古文書 など、 法然作 である証拠を開示してくれれば俄然おもしろくなるのだが・・・。


ところで、ここからそう遠くないまんのう町羽間の 西念寺 も法然上人が讃岐の根拠地にしたゆかりの地である。





蛇石  蛇石   法然上人歌碑   蛇石道標   遍路道標

善通寺   曼荼羅寺   出釈迦寺   禅定寺   西行庵   人面石   鷺井神社   東西神社
我拝師山   天霧山   七人同志   片山権左衛門   乳薬師   月照上人   牛穴
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