このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

三野津へ上陸説


 
西行法師の讃岐上陸地点はどこか?
インターネットに諸説の書き込みがある。

「讃岐の風土記 by 出来屋」によると、
●旧吉津小学校校庭西行上人歌碑
西行は讃岐の三野津に立ち寄ったと伝えられています。三野津は現在の三豊市三野町吉津とされ、昭和31年(1956)旧吉津小学校校庭に、「志きわたす月乃氷をうたかひて ひびのてまはる味のむら鳥」と刻まれた歌碑が建立されました。 その後、吉津小学校は移転され、歌碑のある場所は、現在町の老人福祉センターの前庭になっています。
 「山家集」に、「さぬきの国にまかりてみのつと申す津につきて、月の明かくて、ひびの手も通はぬほどに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて跳び渡りけるを敷き渡す月の氷を疑ひてひびの手まはる味鴨の群鳥」と載せられています。
この中で「みのつ」とは三野津のことで、当時三野津は広い入江の良港でした。西行が崇徳上皇の白峰参拝と空海の善通寺詣でをかねて讃岐に渡ってきた時の上陸地はこの三野津であったともいわれています。
 「ひび」とは、魚をとるため、または海苔の養殖のため海中に立てる粗(えだ)のことです。川田順はこの歌を、「海上の月光を氷が敷いたのかと疑い恐れて、その方までは飛びゆかず、海(えだ)のあたりを翔け廻っている水禽らよ」と解釈しています。 また、富士正晴は、「すうっと敷きつめている月の光を氷と錯覚してひびの手(ひびわれの手という意味も匂わせている)をよけて通る味鴨の群れよ」と解釈しています。

香川県立図書館の「地誌 (43K) - 地域の本棚」より、
問 三野津湾について
答 昭和30年4月1日に、大見村、下高瀬村、吉津村の3村が合併して三野村が誕生し、昭和36年9月1日町制を実施して、三野町となった。
  三野町は瀬戸内海が詫間町の的場、松崎の辺りから南に這入り込んだ三野津湾の周囲に開けた町で、三野津湾は今は周囲の土砂が流れ込んで立派な三野平野を形成している。
   三野津湾 に舟が出入していたのは、そんなに古い昔の事ではない。700年余り前に西行法師が吉津、津の前に上陸されて、そこから三野津湾の光景を歌に詠まれている。吉津小学校の運動場の入口に「西行法師歌碑所在地」という石碑が建てられている。歌碑は運動場の東北隅にあって川田順氏揮毫のものである。
  西行上人歌碑
    志きわたす月の氷をうたかひて
      ひびのてまはる味のむら鳥
 月明の夜、法師がこの湾岸に立って三野津湾の光景を詠まれた旅の歌人として有名な西行法師の面影が目に浮かぶようである。
  善通寺市吉原町三井の江の畑の中に西行堂という小さい庵があるが、法師はここで居られてから吉津、津の前に来たという説と、津の前から善通寺の方へ行かれたという2説があるがそれはどちらでもよい。法師が津の前で歌を詠まれたという事実は真実であろう。

  西行上人歌碑 (吉津小学校跡地、現:老人福祉センター)


歌碑背面の碑文
 

なお、「 讃岐名所歌集 」には異説が述べられている。



西行庵  正面   全景   内部   江戸時代の記録   歌碑   生木大明神

善通寺   曼荼羅寺   出釈迦寺   禅定寺   人面石   鷺井神社   東西神社
我拝師山   天霧山   七人同志   片山権左衛門   乳薬師   月照上人   牛穴   蛇石
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