このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「水茎の岡の西行庵」


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西行法師は弘法大師の生まれた里にしばらく逗留した。

曼荼羅寺付近を読んだ歌が残っている。


右端の石碑の3面に渡って次の3つの歌が刻まれている。(他の石碑は墓である。)
3首とも「全讃史」の「水茎の岡」および「筆の海」の項に収載されている。

「善通寺市史第一巻」によれば「山里庵の・・・二基の歌碑には・・・」として4首が引用されているが、吉原の西行庵(=山里庵)には歌碑は現在上の写真の1基しかなく、その3首のうち「善通寺市史」に収載されているのは2首のみである。「善通寺市史」に書かれている残り2首は見あたらないが、もう1基どこかに歌碑があったのだろうか?


山さとに うき世 いとはん友もがな くやしく過ぎし むかしかたらん 西行上人
H14.12.29 
「善通寺市史」では「山さとに うき世 いとわむ友もがな くやしくすぎし 昔かたらむ」となっている。


水くきのおかの みなとの浪よりや ふて(=筆)の海てふ 名に立らん 為家
(注:字は文字不明箇所)
 H14.12.29
為家は藤原定家の子でしょうか。

「名にぞ立つらん」は、「善通寺市史」では「名にい立ちけむ」、「全讃史」及びウェブ検索では「名には立つらん」となっているが、石の風化具合から見てこの石碑は江戸後期に建てられたと想定して、この歌碑に刻まれている「そ」は変体仮名というより現代仮名として読みました。
「筆の海」はもちろん、筆の山の麓から海岸寺へ向けて昔遠浅の藻場だったという筆の海のことである。



あまぎりあひ ひかた吹くらし 水莖の 岡のみなと波たちわたる 讀人不知
(彫りが浅くて読めないため、左の写真は彫りの溝を黒く写真加工しました。)
字は万葉集巻第七及び全讃史では「に」)
 

拓本を採ってみました。「岡のみなと」と読めます。


(ご参考) ひかた(日方):日のある方から吹く風。夏の季節風
   (地方により、西南や東南の風をいう。)
みずくき(水茎):筆跡、手紙。「岡」の枕詞
     あまぎりあひ(天霧相)は万葉集では「あまぎらひ」と読んでいる。

これほど当地吉原にピッタリの歌をよく見つけたものです。
天霧相(あまぎらひ)は万葉集では、空に霧が満ちるようにすっかり曇るという意味のようですが、西行庵の歌碑にわざわざ「あまぎりあひ」と刻ませたに違いない先人の意志を汲み取って、 この歌を、吉原地区の地名にあてはめて解釈すると、(吉原の西は鳥坂峠に遮られるから南東の風が吹くかと思ったが、現実には南西の風がよく吹くようだ、ということも考慮に入れて)

天霧山の山あいに、南西の季節風が吹き込んだらしい。水茎の岡の下にある( 三井之江 の)港に波が立ち渡っている。

ところが、「 讃岐名所歌集 」によると、これは吉原を詠んだ歌ではない、として完膚なきまでに否定されている。「読人知らず」の歌なのに、これがどこの場所を詠んだものかどうやって証明できるのだろうか。

西讃府志 」にもどこを詠った歌かの記述がある。→「 弥谷寺文書 」の中にも天霧の地について所見がある。




西行庵前の歌碑の隣にあるのは個人の墓か?

明治四十四年八月念二没 (念二=22)
大覺院芳興居士
俗名 勝俟小一 廿歳


(西行庵の入口に新しく建てられている歌碑とその額)
西行が い保里せし跡 希典が うえしホルトの繁り居り今 中河与一
 






西行庵  正面   全景   説明板   内部   江戸時代の記録   山家集   生木大明神   滞在期間   讃岐での足跡

善通寺   曼荼羅寺   出釈迦寺   禅定寺   人面石   鷺井神社   東西神社
我拝師山   天霧山   七人同志   片山権左衛門   乳薬師   月照上人   牛穴   蛇石
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