このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

西行法師の四国滞在期間はどのくらいか?


 
  「増補 西讃府志」によると、


西行水莖岡に庵シメテ、五年バカリ居ケルニ・・・ となっていて、水茎の岡に5年居たとなっている。

本当に5年もいたのか、西行法師の履歴をインターネット上から寄せ集めてみると、ほぼ次のようになる。

<西行法師の行動履歴>
和 暦西 暦月/日満年齢出  来  事
元永元年1118  生誕
保延元年1135 17歳18歳で左兵衛尉
保延3年1137  鳥羽院の北面の武士
保延6年114010/1522歳23歳で出家、円位を名のり、後に西行とも称した。
久安2年1146 28歳29歳のとき陸奥へ旅立つ。一冬を陸奥で過ごしている。
久安5年1149 31歳高野山に入って庵を結ぶ。出入りを繰り返しつつ約30年間を当地で過ごす。
(清盛の誘いを受けたか)西行が西国(すなわち安芸の一宮)へ向かって旅をし、高富の浦で詠んだと思える歌が残っている。
保元元年(1156) 7/2 鳥羽法皇が崩御し、「保元の乱」が勃発。
平治元年(1159)12/ 「平治の乱」
長寛2年(1164) 8/ 崇徳院が讃岐の配所で崩じた。
仁安3年1168 50歳51歳のとき中国、四国巡礼、崇徳上皇鎮魂。讃岐国の善通寺でしばらく庵を結んだらしい。
(白峯寺訪問は後代に上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峯」に仕立てられている。)
西行は四国から高野山に帰る前に、当地で暮らしていた庵の前に立つ松に歌った。
治承元年1177 59歳伊勢国二見浦へ移住
治承4年(1180)  源平の乱が勃発
治承5年(1181) 7/ 平家都落ち、(西行戦乱を嘆く歌を二見浦で詠む。)
文治2年1186 68歳重源に頼まれ東大寺再建の砂金送付督促(勧進)に、実に40年ぶりに陸奥へ向かう。
 1186 8/15 この途次、鶴岡八幡宮に参詣した頼朝と西行が遭遇(「吾妻鏡」)
文治3年1187 69歳このころ京都嵯峨の庵に住み子供の遊びを題材に「たはぶれ歌」を詠む。「御裳濯河歌合」を成して俊成の判を請う。
文治5年1189 71歳西行は京都高尾の神護寺へ登山する道すがら、まだ少年だった明恵上人に、西行自身がたどり着いた集大成ともいえる和歌観を語っている。
文治6年1190 2/16 (これより少し前に河内国の弘川寺に庵居し)この地で入寂した。享年73歳


上表をみれば、西行は1168年に四国へ来てから、1177年に伊勢二見浦へ移住するまでの9年間、たいした行動記録がないようである。とすれば西行が四国で数年間(9年間以内)くらいまでは滞在していたとしても不都合はない。

一方、「西讃府志」によれば、
<西行法師の四国滞在についての記述>
和 暦西 暦月/日満年齢出  来  事
仁安の頃1165~  (西行自記)西國はるはるす行(=修行?)し侍りしついでに、さぬきの國云々、
治承2年1178  (西行自記)秋より三四年西國修行、かへるさ讃岐國多度郡筆の山のはに住すと見ゆ、
寿永2年11831/23 善通寺にて書き終わりぬ(撰集抄)

「仁安の頃」とは上側の表にある 仁安3年 のことであろう(仁安2年とする説もある)。更に治承2年以降にも四国へ来たのだろうか。
1178年から3〜4年西国修行し、その帰りに(1181〜2年頃か)筆の山(我拝師山?)の端に住んだというなら、1186年に再度奥州へ旅立つまでの間も4〜5年吉原に住むことは可能であろう。(1181年には戦乱を嘆く歌を二見浦で詠んだことになっているが、二見浦は歌を詠んだときの「現住所」であって、この頃西国へ旅していたのではないか?)

「撰集抄」は仮託(別人が西行に成り代わって書いた)だそうだから、創作の可能性もあるが、上の経緯から西行が2度に渡って四国へ来ていたのなら、1183年にそのまとめを「善通寺の方丈で書き終えた」というのもまんざらおかしくはない。


ところが である。四国新聞に次のようなコラムが載った。
 


この記事は頭から「山里庵はウソだ」という先入観で書かれている。しかもその根拠が「撰集抄は仮託の書であるため寿永2年というのはおかしい」という理由だけである。
もし「撰集抄」が仮託のためマチガイだとするなら、「寿永2年」だけ否定せずに、「寿永2年に善通寺の方丈で書き終えた」というところまで否定すればどうか。当時「善通寺」といえば多度郡善通寺村を指すか、あるいは弘法大師の誕生院善通寺を指すかである。これを否定するなら、西行は善通寺には来なかったことになるから、善通寺の南大門の外の「久の松庵」は否定され、弘法大師幼年の修行の場であった多度郡吉原村の「山里庵」だけが残ってしかるべきであろう。

上掲の新聞記事の中では;
まったく支離滅裂である。この新聞記者は何か悪意を以て山里庵を抹殺しようとしているのではないか。マスメディアの力を濫用するペンの暴力と言わざるを得ない。

あまりにも、自分に都合の良いところだけを残して気に入らないところは抹殺しようとする非科学的コラムといわざるを得ないと思うが、いかがか。大西元館長に「仮託」して「身悶えした」などと勝手なことを書くとはとんでもない、厚顔無恥としかいいようがない。

西行上人が何年にも渡ってこの辺りに滞在したのなら、善通寺にも住み、吉原の山の端にも移り住んだと考えるのが自然ではなかろうか。

「地元自治会が山里庵を再建した」と書かれているが、これも事実誤認のようだ。この当時の当事者によると自治会とは別の組織である郷土研究会が寄付を募って再建した、とのことである。いったい何を取材してこんな 事実と異なる 記事を書くのか。この 執筆者 自身がミステリースポットではないのか。

なお、大西義文氏の名誉のために少し補足しておきたいが、同氏は「西行雑考−善通寺滞在の周辺−」の中で、「山里庵が出現したのはおかしい」というような意味のことは一切書いてない。
それどころか、「心しずかに善通寺の草庵で越冬したようである。」とし、その注として「『山家集』所載の詞書から善通寺市吉原町『水茎岡』が庵趾に擬せられる。」と書かれており、大西氏は「庵趾は水茎の岡(=山の中)にある」と注釈しておられる。
むしろ、下に掲示するように「玉泉院地内にある古松が西行ゆかりの久の松であるという説を否定するとしても、本院『善通寺』の塔頭としての歴史までは抹消できまい。」と書かれており、久の松が否定されることにより玉泉院の存在そのものまで否定されることを心配している。下に掲示してある通りだとすれば、「昔西行、此の松の下に七日七夜籠り居りて」となっており、そこに既にあった堂塔に参籠しただけで、庵までは結んでいなかった、とも取れる。
山里庵についてはしいていえば、山里庵の場所はどこであったかを問い、「山里庵は今の場所より もっと高所 でなければならない」という引用文を紹介している。

この点については、地元の熱心な郷土史家が、あちこちに点在する古い道標に刻まれた水茎までの距離と、江戸時代の遍路道の途中で西行庵へ立ち寄った記録から、地元に残る古い細道を辿り、当時の西行庵の位置を特定している。それによれば、現在の場所より高所ではなく、東へ少し下がった位置になり、そこからは 山家集 に歌われているとおり瀬戸内海もよく見える。また土地を提供したという当時の松岡家の広大な土地の範囲内にも入っており、全てが矛盾しない場所となっている。
(もっとも、現在位置でも目の前の雑木林を西か東へ歩いて1分も移動すれば、瀬戸内海は見える。)

  「西行雑考−善通寺滞在の周辺−」(大西義文:記)のところどころ抜粋を以下に示す。
(「文化財協会報 昭和61年度 特別号」S62年3月, 香川県文化財保護協会 編集発行)より

注釈の抜粋

<中略>

<中略>


同上より、「おわりに」の章の最終部分


大西氏はこの記事の中で、特に「水茎」という地名と、「筆の海」という地名には疑義を差し挟まれている。山里庵のあるこの辺りは「岡」であって、「水茎」は岡にかかる枕詞であるから、この土地を「水茎」と呼ぶのが気に入らないようであるが、ただの岡を水茎と美しく呼んだとしても寛容な気持ちで見て頂きたい。卑近な例で言えば、「○○富士」とか「富士見平」とかいう地名があちこちにあるが、こんなところに富士山があるわけがないと批判してもしょうがない。美しいものにみんなあこがれるのである。
「筆の海」については、この辺りが海であった事実はないという学識者が多いが、古墳時代には陸であっても、源平時代には海面上昇があったのではなかろうか( 藤戸合戦跡 )。また、「吉原」は「葭の原」からきているらしく、つい最近まで(海抜25m以上の場所でも)ところどころに が残っていた。従って昔は葭の生えた湿地帯であった可能性もある。


参考までに「撰集抄」の該当部分を示す。
  「撰集抄 巻九」の巻末


写本により誤記が出るが、なんと善通寺ではなく善導寺となっているものもある。




<四国新聞のコラム「かがわの都市伝説」記事の横暴を問う>
既存の資料の記述四国新聞/明石安哲記者
西行法師は仁安3年(1168年)のころ、四国を訪ねた。「山家集」には「同じ國に、大師のおはしましける御辺(あたり)の山に、庵結びて住みけるに、」と書かれており、西行自身が 山に庵を 結んだといっている。
また、「庵の前に、松の立てりけるを見て」久の松の歌を詠んでいる。(果たして久の松はどこにあったかは書かれていない。庵は山に、松は庵の前にあった。)
西行自身の記述を知りながら、山に庵を結んだことを否定。
また、次欄より久の松は南大門付近にあるとして、庵はその前にある筈だから、山中の庵を否定。
道範阿闍梨が書いた「南海流浪記」(1242〜1249年頃)には、善通寺の南大門で「其の門の東脇に古大松あり、寺僧云く、昔西行此の松の下に七日七夜籠り居て、ひさに経て・・・の歌を詠んだ」となっている。久の松は南大門の東にあったか。とすると、南大門の南西数百mにある玉泉院の松とは何か?西行はここに七日七夜参籠した、ということは既にあった堂塔に泊まったのではなかろうか? 庵を結んで長期滞在したとは書かれていない。善通寺の「寺僧云く」というこの寺僧が久の松を善通寺にくっつけようとしてあいまいなことを言った可能性も考えられる?「久の松が南大門の東脇にあったから、庵は山中の庵ではない」としており、庵の場所は1つでなければならないと決めてかかっている。庵が南大門の東か南西かは無視。
「撰集抄」(建長2年(1250年)頃か少なくとも弘安10年(1287年)頃までに成立)に「寿永2年善通寺の方丈にて記し終わりぬ」と書かれている。「撰集抄」は仮託の書だから、寿永2年まで善通寺でいたというのはウソである。このせいで西行は数年も滞在したことになり、もう1つの西行庵説が出来あがってしまった、としている。
「増補 西讃府志」(安政5(1858)完成)には;
 ・「西行自記にも、仁安の頃(1165〜)、西國はるはるす行(=修行?)し侍りしついでに、さぬきの國云々、」
 ・「13年の後、治承2年(1178)の秋より三四年西國修行、かへるさ讃岐國多度郡筆の山のはに住すと見ゆ」
 ・「撰集抄の末に、寿永2年(1183)正月23日善通寺にて書終わりぬ」
 ・「芋畑記ト云書ニ、西行水莖岡ニ庵シメテ、五年バカリ居ケルニ、」
これが真実なら西行は四国へ2度来たことになる。1度目は仁安2年(3年説も)〜。2度目は治承2年(1178)の3〜4年後、即ち1181〜1182年に四国に来たなら、寿永2年(1183)までいたとしても四国滞在は1〜2年間となる。5年いたのは1度目のときか。
(引用無し。)
大西義文著「西行雑考−善通寺滞在の周辺−」には;
 ・「帰京する西住とも別れて、心しずかに善通寺の草庵(注3)で越冬したようである。」とし、「注3:『山家集』所載の詞書から善通寺市吉原町『水茎岡』が庵趾に擬せられる。」と書き、即ち大西氏自身が「庵趾は吉原町の水茎岡(=山中)が当てはまる」と注記している。
 ・上述の「南海流浪記」の記述を引用し、「いまかりに、この説をとって、その立地から玉泉院地内にある古松が西行ゆかりの久の松であるという説を否定するとしても、本院『善通寺』の塔頭としての歴史までは抹消できまい。」と書かれており、久の松庵が否定されることを心配しているかのような書き方をしている。
大西氏は、「水茎という枕詞をただの山中の岡の地名にしていいのか」とか、「筆の海は存在しないとか」を主張しており、山里庵が存在しないとはこれっぽっちも書いていない。
「撰集抄」のせいで、(ありもしない)山里庵が出現し、その周辺にさまざまな西行伝説に基づく風物が次々に出現したと、大西義文元館長が嘆いているかのように、勝手に明石記者が大西元館長に「仮託」してでっち上げている。
乳薬師の 西行歌碑 の横にある地蔵尊には何も字が彫られていない。地蔵尊を西行の石像であると書いているが、根拠不明。
同上の歌碑の上端に右書きで「芋畑古跡」と彫られている。「芋畑古跡」を「芋畑右江」と読み違えて、ありもしない説を展開している。

今までは漠然と、「西行法師は崇徳上皇の鎮魂のため来讃し、その足で弘法大師を慕って生誕地の善通寺へ来たのだから、まずは善通寺付近にしばらく逗留し、 そのあと、大師幼時の修行の地である行道所があることを聞きつけて、我拝師山の中腹に庵を移して逗留したのだろう」ぐらいに安易に思っていたのだが、こうして 各資料の記述を並べてみると、西行庵は最初から吉原の山里にあり、その前に松があって、久の松の歌を詠んだが、それでは大師誕生院である善通寺の面目が 立たぬと思った善通寺の寺僧が久の松は善通寺の脇にあるといいふらし、その後玉泉院の松を久の松とする伝説が出来上がっていったのではないか、という 構図が見え隠れしてくるが、いかがであろうか。

『南海流浪記』の 史料紹介 (香川県埋蔵文化財センター 研究紀要 8, 2012.3.26発行)によれば、
「大師のおはしましける御辺りの山」(『山家集』)に結んだという西行の 庵がどこにあったかは不明である。しかし、西行の讃岐巡礼から約八〇年 後、善通寺において、南大門の東脇にはまさに古い大松が存在し、西行が 「七日七夜籠居した」庵ゆかりの「西行が松」であるとの伝説が語られて いたというのは、興味深い。このような西行伝説は、西行の名声ゆえに、 鎌倉時代以来全国に流布したのである。

また、 「西行四国行脚の旅程について」 (香川大学佐藤恒雄教授, AN00038157_31_275.pdf , 2012.3.27公開)によれば、
西行が訪れて約80年後には,すでに西行庵と松が南大門のすぐ近く(現在の玉 泉院の場所という)に比定されていたことがわかる。寺僧の語ではあり,寺門 の脇とする点においても,おそらくは善通寺当局の宣伝誇示を目ざすような力 が介在しての名所捏造であったかに思われるが,とまれ,ここにすでに伝説化 されてゆく西行像の,その伝説化のメカニズムの一端を垣間見ることができて 興味深い。

とあり、誕生院善通寺の僧が西行の名声にあやかりたくて、辻褄の合わない伝説を流布したとみてよかろう。

西行が讃岐へやってきた仁安3年(1168)の頃は、都(東寺、高野山)からは、善通寺・曼荼羅寺を合わせて 弘法大師ゆかりの地 と見られていたようである。西行が讃岐へやってきた目的の第一義はなんといっても崇徳院の鎮魂である。白峰の崇徳院陵墓にお参りを済ませたとはいえ、西行はそんな簡単なことで院の鎮魂ができたとは思っていなかっただろう。そこで「同じ國に、大師のおはしましける御辺(あたり)」へきてみれば、善通寺・曼荼羅寺が弘法大師ゆかりの地であることがわかる。そこで 白洲正子氏 のいうように、白峰の崇徳院陵を遙拝でき、しかも弘法大師の霊験を受けられる山腹に庵を結び、毎日谷川を下って「閼伽井の水」を汲み、祭壇に供えては、院の冥福を祈ったに違いない。その目的があったからこそ、数年に及ぶ長期間にわたって滞在し続けたに違いない。その目的のためには、曼荼羅寺近くの山中に庵を結ぶことは西行にとって至極自然な成り行きであったろう。決して善通寺だけが大師の里とは思っていないし、平地の善通寺近辺では崇徳院への鎮魂の祈りは届かないと考えたであろう。「山家集」を読むと、山里の生活が長いため、時折は「大師の生まれさせ給いたる所とて、廻りの仕廻して」という松を見に行ったり、「善通寺の大師の御影」を見に行ったりしたんだな、ということがわかる。しかし、「山家集」に書かれている歌が示す通り、毎日の生活はあくまで山の中である。
前述の白洲正子氏は、「山家集」に出てくる日比・渋川ですら、「讃岐への途上のように聞こえるが、白峰へ詣でる前にそんな余裕はなかった筈」とし、日比・渋川や塩飽・真鍋島さえも長期の鎮魂に耐えきれず「山から海へ浮かれ出た折の詠歌であろう」としている。興味深いとらえ方である。

事実無根の変な新聞記事のお陰で西行庵に関わる資料を真剣に読むことになったが、ここで冷静に考えてみると、この新聞記者も所詮善通寺の誰かから教わってこの記事を書いたに違いない。変な伝説を大々的に流布しまくって、もう 後には引けなく なっているのは玉泉院の方だと考えればすべてがピッタリ合う。新聞記事は久の松庵と山里庵とを取り違えたのではないか。大西義文氏も、地元が熱心に活動していることに水を差す気はないと述べている。

「南海流浪記」によれば、「西行ガ松」は南大門の東脇にあった。これでは南大門の南西200mにある玉泉院の立地とは合わない。そのせいだろうか、玉泉院は元は善通寺の伽藍境内にあった、という説も流されているようだ。しかしこれもおかしな話である。玉泉院の横には弘法大師が自ら掘ったとする「玉の泉」があり、西行がここに住んでいたときに「岩にせく閼伽井の水のわりなきは 心すめともやどる月哉」と詠ったという看板まで付いている。玉泉院の中にある「久の松」はひょっとしたら南大門の東脇の松が寿命で枯れたため、玉泉院の中に2代目の松として移したのだという言い訳も出来なくないだろうが、弘法大師自ら掘った泉は移設してはいけないだろう。移設すれば、もはや弘法大師が自ら掘ったものではない。従って最初からここにあったに違いない。とすれば玉泉院も大師が玉の泉を掘った後はここになければならない。従って弘法大師からおよそ350年後に西行がやってきたときも勿論玉の泉は南大門の南西にあり、玉泉院も南西にあった筈である。とすると、西行よりも更に75年以上経って書かれた「南海流浪記」のいう「西行が南大門の東脇の松の下で七日七夜籠居した」ことと玉泉院とは無関係ということが証明されてしまう。

そういえばこの新聞記者は、「 芋畑史跡 」の記事では、隣接する地蔵尊を「西行石像」と早とちりし、芋畑の歌碑の「芋畑古跡」という文字を「芋畑右え」と読み違え、「 七義士 」の記事では、「七人同志之内」という文字を「七人童子之内」と読み間違え、随分ガサツな記者である。
地元の人が抗議したら、地元の人から聞いて書いている、との回答だったので、それは誰から聞いたのか、と問うと、「情報ソースは明かせない」と言ったそうであるが、その後も「かがわの都市伝説」には吉原の話題がしぶとく続き、なぜか地元の情報ソースを記事中に登場させまくって書いている。情報ソースは明かせないのではなかったのか? 恐らく抗議を避けるために地元の人を防波堤に使っているのだろう。それにしてもいまだに、東西の方向を間違えたり、3年半前に移転した公共施設が古い位置のままの地図を平気で使ったりと、雑である。新聞記事はこんなに雑でよいのか? 製造企業では「乾いた雑巾を絞る」とまで言われるほどコストを切り詰めながらも、品質確保のためコストがかかるのを承知でダブルチェック・トリプルチェックまでして、外に間違いが出て行かないようにしているというのに、新聞はマチガイ垂れ流し放題である。


・「 山家集 」を素直に読み、(庵は山に、松は庵の前に、あったと書かれている。)
・それより80年も経って書かれた道範阿闍梨の「 南海流浪記 」や作者不詳の「 撰集抄 」などの雑音を捨てて、
・西行の気持ちに思いをはせ、心静かに当地を実際に歩いてみれば、
白洲正子氏木村利行氏 のように、西行庵は曼荼羅寺か出釈迦寺の近くの山にあったと確信するようである。


同新聞のH29.1.7の「一日一言」という論説欄に面白い意見が出ていた。米大統領選の期間にトランプ候補に有利となるような虚偽の記事を次々とフェイスブックにアップし莫大な広告料をかせいだ投稿者は、罪悪感も感じていない、という問題に関して、「『事実と憶測を混同するな』と口酸っぱく言われた身からすると、たじろがざるを得ない。事実の報道は無根拠の記事に駆逐されるのだろうか。(中略) メディアの正念場だ。」と書かれている。マスコミの正義はぜひ守ってほしいものである。
私の周りの年配者の間にも憶測を事実の如くに書く人が少なからずいる。そんなものが出版されると、百年も経てば何が事実かわからなくなる。抗議すると、「表現の自由だ」と反撃してくる始末。「表現の自由」と「でっち上げ」とを混同されては迷惑である。

話はそれるが、このトランプ次期大統領が当選後初の記者会見を1.11に行ったが、米CNNの記者に対しウソつきメディアには質問させないとして拒否。歴代大統領がしてきた納税額の公開については、「そんなことを要求するのは記者だけ。私は勝ったのだ。国民はそんなことを気にしていない。」と、まるでゴロツキのような態度。偽の記事がSNSに出回ったとはいえ、こんな人物を国家元首に選んでしまう米国社会も病んでいるといえるのではなかろうか。

H29.1.28のNHK TVでも、ウソ情報のインターネットサイトがかなりあるとの放送をしていた。何が真実か、選別する眼力が必要である。上述の米大統領選で広告料稼ぎのためにウソ情報を流していたのはマケドニアの若者グループらしいとのこと。

しかし、トランプ大統領の就任式になって、祭典に集まった国民の数は今までで最高だったと、大統領側が発表した。でもオバマ大統領就任式の半分しか人がうまっていないのは写真をみれば明らか。そう抗議したら、大統領側は、"Alternative Fact"(代わりの事実)だとうそぶいた。大国の指導者までがデタラメを主張する時代になってしまった。事実の報道より無根拠の記事の方が正当化される世の中とは、泥棒の方が正直者より正しいことになってしまう。

井沢元彦著「逆説の日本史5 中世動乱編」(小学館文庫本)のP.40には、源頼朝が平氏に反して挙兵したとき、石橋山で大軍に挟み撃ちされ、敗死して当然の状況から脱出しているが、これには裏の事実があるのではないか、ということに関して、「無味乾燥な事実ばかりを有難がり、少しでも面白い話は『後世のフィクション』として排除する傾向が、今の歴史学会にはあるが、私はこの話、あながち捨てたものではないと思う。」と書かれているが、フィクションとして片付けられないものを葬り去るのは問題かもしれないが、たとえ無味乾燥で面白くもなかろうとも、事実は事実であり、面白がってフィクションを真実かのように、マスメディアが取りあげるのは許されない。

H29.3.23森友学園の籠池理事長の国会証人喚問が実施された。学校建設用地8億円を1億円で購入した経緯もさることながら、首相夫人が首相からと言って100万円を寄附したのかどうか、というのが、一般大衆としては興味津々である。寄付金を渡したのか渡していないのか、録画でもしていない限り証拠もなく、水掛け論である。証拠がないといえば、その翌日ささいなことながらこんなことがあった。114BNKへ行き整理番号424をもらい、出金伝票を書いていると、「423番の方どうぞ」というアナウンスが流れた。よかった、今日はすぐ呼ばれるぞと思いながら、待合所に座って待っていた。ところがその後、600番代が呼ばれ、100番代が呼ばれ、一向に私の番号は呼ばれない。するとまた「423番の方どうぞ」というアナウンスがあった。さっき呼んだけれど来なかったのでまた呼び出しているのだろうか。なおも待っていると「425番の方」というアナウンスが来た。これはおかしい。2度目に呼ばれた「423番」は424番の間違いではなかったのか。聞き間違いでは絶対にない。録音でもしていない限り水掛け論になってしまうが、念の為次の呼び出しを待ち「426番の方」が呼び出されたのを確認して、係員に「424番が呼ばれなかった。423が2回呼び出されましたね」と申し入れたら、「ちょっと確認します」といって窓口へ行った。すぐ年配のベテラン風の窓口係から呼び出しがあって、処理をしてくれた。処理を待って現金を受取るときにもなんとなく胡散臭そうな目で見ているようで、「ごめん」の言葉もなかった。誰にも間違いはある。そしてどっちのミスか証拠がないこともある。それは仕方がないが、誤らないとは何事か。殿様商売か、気分が悪い。




西行庵  正面   全景   説明板   内部   江戸時代の記録   歌碑   山家集   生木大明神   讃岐での足跡

善通寺   曼荼羅寺   出釈迦寺   禅定寺   人面石   鷺井神社   東西神社
我拝師山   天霧山   七人同志   片山権左衛門   乳薬師   月照上人   牛穴   蛇石
トップページへ


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください