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西行法師の四国滞在期間はどのくらいか?
和 暦 | 西 暦 | 月/日 | 満年齢 | 出 来 事 |
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元永元年 | 1118 | 生誕 | ||
保延元年 | 1135 | 17歳 | 18歳で左兵衛尉 | |
保延3年 | 1137 | 鳥羽院の北面の武士 | ||
保延6年 | 1140 | 10/15 | 22歳 | 23歳で出家、円位を名のり、後に西行とも称した。 |
久安2年 | 1146 | 28歳 | 29歳のとき陸奥へ旅立つ。一冬を陸奥で過ごしている。 | |
久安5年 | 1149 | 31歳 | 高野山に入って庵を結ぶ。出入りを繰り返しつつ約30年間を当地で過ごす。 | |
(清盛の誘いを受けたか)西行が西国(すなわち安芸の一宮)へ向かって旅をし、高富の浦で詠んだと思える歌が残っている。 | ||||
保元元年 | (1156) | 7/2 | 鳥羽法皇が崩御し、「保元の乱」が勃発。 | |
平治元年 | (1159) | 12/ | 「平治の乱」 | |
長寛2年 | (1164) | 8/ | 崇徳院が讃岐の配所で崩じた。 | |
仁安3年 | 1168 | 50歳 | 51歳のとき中国、四国巡礼、崇徳上皇鎮魂。讃岐国の善通寺でしばらく庵を結んだらしい。 | |
(白峯寺訪問は後代に上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峯」に仕立てられている。) | ||||
西行は四国から高野山に帰る前に、当地で暮らしていた庵の前に立つ松に歌った。 | ||||
治承元年 | 1177 | 59歳 | 伊勢国二見浦へ移住 | |
治承4年 | (1180) | 源平の乱が勃発 | ||
治承5年 | (1181) | 7/ | 平家都落ち、(西行戦乱を嘆く歌を二見浦で詠む。) | |
文治2年 | 1186 | 68歳 | 重源に頼まれ東大寺再建の砂金送付督促(勧進)に、実に40年ぶりに陸奥へ向かう。 | |
1186 | 8/15 | この途次、鶴岡八幡宮に参詣した頼朝と西行が遭遇(「吾妻鏡」) | ||
文治3年 | 1187 | 69歳 | このころ京都嵯峨の庵に住み子供の遊びを題材に「たはぶれ歌」を詠む。「御裳濯河歌合」を成して俊成の判を請う。 | |
文治5年 | 1189 | 71歳 | 西行は京都高尾の神護寺へ登山する道すがら、まだ少年だった明恵上人に、西行自身がたどり着いた集大成ともいえる和歌観を語っている。 | |
文治6年 | 1190 | 2/16 | (これより少し前に河内国の弘川寺に庵居し)この地で入寂した。享年73歳 |
和 暦 | 西 暦 | 月/日 | 満年齢 | 出 来 事 |
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仁安の頃 | 1165~ | (西行自記)西國はるはるす行(=修行?)し侍りしついでに、さぬきの國云々、 | ||
治承2年 | 1178 | (西行自記)秋より三四年西國修行、かへるさ讃岐國多度郡筆の山のはに住すと見ゆ、 | ||
寿永2年 | 1183 | 1/23 | 善通寺にて書き終わりぬ(撰集抄) |
既存の資料の記述 | 四国新聞/明石安哲記者 |
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西行法師は仁安3年(1168年)のころ、四国を訪ねた。「山家集」には「同じ國に、大師のおはしましける御辺(あたり)の山に、庵結びて住みけるに、」と書かれており、西行自身が
山に庵を
結んだといっている。 また、「庵の前に、松の立てりけるを見て」久の松の歌を詠んでいる。(果たして久の松はどこにあったかは書かれていない。庵は山に、松は庵の前にあった。) | 西行自身の記述を知りながら、山に庵を結んだことを否定。 また、次欄より久の松は南大門付近にあるとして、庵はその前にある筈だから、山中の庵を否定。 |
道範阿闍梨が書いた「南海流浪記」(1242〜1249年頃)には、善通寺の南大門で「其の門の東脇に古大松あり、寺僧云く、昔西行此の松の下に七日七夜籠り居て、ひさに経て・・・の歌を詠んだ」となっている。久の松は南大門の東にあったか。とすると、南大門の南西数百mにある玉泉院の松とは何か?西行はここに七日七夜参籠した、ということは既にあった堂塔に泊まったのではなかろうか? 庵を結んで長期滞在したとは書かれていない。善通寺の「寺僧云く」というこの寺僧が久の松を善通寺にくっつけようとしてあいまいなことを言った可能性も考えられる? | 「久の松が南大門の東脇にあったから、庵は山中の庵ではない」としており、庵の場所は1つでなければならないと決めてかかっている。庵が南大門の東か南西かは無視。 |
「撰集抄」(建長2年(1250年)頃か少なくとも弘安10年(1287年)頃までに成立)に「寿永2年善通寺の方丈にて記し終わりぬ」と書かれている。 | 「撰集抄」は仮託の書だから、寿永2年まで善通寺でいたというのはウソである。このせいで西行は数年も滞在したことになり、もう1つの西行庵説が出来あがってしまった、としている。 |
「増補 西讃府志」(安政5(1858)完成)には; ・「西行自記にも、仁安の頃(1165〜)、西國はるはるす行(=修行?)し侍りしついでに、さぬきの國云々、」 ・「13年の後、治承2年(1178)の秋より三四年西國修行、かへるさ讃岐國多度郡筆の山のはに住すと見ゆ」 ・「撰集抄の末に、寿永2年(1183)正月23日善通寺にて書終わりぬ」 ・「芋畑記ト云書ニ、西行水莖岡ニ庵シメテ、五年バカリ居ケルニ、」 これが真実なら西行は四国へ2度来たことになる。1度目は仁安2年(3年説も)〜。2度目は治承2年(1178)の3〜4年後、即ち1181〜1182年に四国に来たなら、寿永2年(1183)までいたとしても四国滞在は1〜2年間となる。5年いたのは1度目のときか。 | (引用無し。) |
大西義文著「西行雑考−善通寺滞在の周辺−」には; ・「帰京する西住とも別れて、心しずかに善通寺の草庵(注3)で越冬したようである。」とし、「注3:『山家集』所載の詞書から善通寺市吉原町『水茎岡』が庵趾に擬せられる。」と書き、即ち大西氏自身が「庵趾は吉原町の水茎岡(=山中)が当てはまる」と注記している。 ・上述の「南海流浪記」の記述を引用し、「いまかりに、この説をとって、その立地から玉泉院地内にある古松が西行ゆかりの久の松であるという説を否定するとしても、本院『善通寺』の塔頭としての歴史までは抹消できまい。」と書かれており、久の松庵が否定されることを心配しているかのような書き方をしている。 大西氏は、「水茎という枕詞をただの山中の岡の地名にしていいのか」とか、「筆の海は存在しないとか」を主張しており、山里庵が存在しないとはこれっぽっちも書いていない。 | 「撰集抄」のせいで、(ありもしない)山里庵が出現し、その周辺にさまざまな西行伝説に基づく風物が次々に出現したと、大西義文元館長が嘆いているかのように、勝手に明石記者が大西元館長に「仮託」してでっち上げている。 |
乳薬師の 西行歌碑 の横にある地蔵尊には何も字が彫られていない。 | 地蔵尊を西行の石像であると書いているが、根拠不明。 |
同上の歌碑の上端に右書きで「芋畑古跡」と彫られている。 | 「芋畑古跡」を「芋畑右江」と読み違えて、ありもしない説を展開している。 |
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