このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「水茎の岡の西行庵」


 
西行法師は弘法大師の生まれた里の山のはにしばらく逗留した。

現在の西行庵からほんの数十秒東へ歩けばご覧の通り、すばらしい眺望が開ける。
右端の形のよい山が飯ノ山、写真中央より少し右寄りの山が青ノ山、その間に遠く広がるなだらかな丘陵が五色台で、その中央付近が崇徳上皇の眠る白峰辺りであろうか。
西行法師は毎日ここから降りて谷川から閼伽井の水を汲んできては祭壇に供え、崇徳上皇の冥福を祈っていたに違いない。

山家集 」には、
同じ國に、大師のおはしましける御辺(あたり)の山に、庵結びて住みけるに、月いと明かくて、海の方曇り無く見えければ

  曇りなき山にて海の月見れば島ぞ氷の絶え間なりける

と詠んでいる。この歌は山の上から瀬戸内海を見て、月に照らされて波が氷のように見える合い間に島がある様を詠っており、
その意味は、「弘法大師がおいでになった穢れない(曇りない)山の聖地で、一点の曇りもない月に照らされる海を見ると、島は敷き詰めた氷の絶え間(境界)のようだ。」ということであろう。

人の目は望遠にも広角レンズにもなるとはいえ、こういう風景に対して、確かにここから海を見ると少し位置が低いかもしれない。



海に焦点をあわせてみても、海の見える範囲は狭い。
庵居している途中で、時にはもう少し上にある出釈迦寺へ参籠して、そこから海を見たのかもしれない。


しかし、現代人は重要なことを忘れていないだろうか。西行が来讃した 源平の時代 には筆の海があったに違いない事を。

筆の海想像図(合成写真)


筆の海がどれくらい湾入していたのかは想像もしがたいが、写真の左半分程度であったとしても、西行の見た風景には眼下にかなりの海が広がっていたのではなかろうか。


なにはともあれ、実地検証してみないと話にならない。西行庵から満月の日の夜景を見てみたいのだが、昨今イノシシの増加で、夜中に山中を歩くのは危険である。

そこで少し上にある出釈迦寺辺りから海を見てみて、驚いた。(同じ場所から撮影した昼と夜の写真を下に示す。)
H27.11.29 H27.11.27

右の写真は11月の満月の翌日である(満月の日は雨で撮影できず)。電柱のあたりの向こうが海だが、真っ暗で何も見えない。
なぜか?考えてみれば当たり前である。西行庵も含めてこの辺りは山の北面である。海は北側にある。月の光は海を見ている人の頭上、背中側にある。物理学の法則通り、こちらから照らした月の光は海面で反射されてさらに遠くの方へ進んでいく。こちらへ光が返ってくることはないから真っ暗である。月の光を浴びて(太陽の光の場合も同じだが)海が氷のように輝くには逆光でなければならない。水面の向こうに月光(または太陽)があって、それをこちら側から逆光で見て初めて水面がキラキラ輝くのである。

ついでに、出釈迦寺からみた瀬戸大橋(ライトアップはしてない通常点灯)
H27.11.28

念の為、満月の夜も撮ってみた・・北側の海は真っ暗
H27.12.25 満月

もっと高所である我拝師山禅定まで登ると海は大きく見えるが、月夜に北の海面が暗いのは同じであろう。
H22.5.13

西の海を見ることができれば、月が沈むときに海面が輝くかも知れないが、残念ながら水茎の岡や出釈迦寺からは鳥坂峠に遮られて西の海は見えない。

(禅定 捨身ヶ嶽より西を見ると) 左の方が詫間湾であるが、ここへ月が沈む季節があれば海が輝く可能性はある。
しかし、満月頃に西に月が沈むのは明け方であり、明け方にこんな高い所に登って来るだろうか?
H22.5.13

海のそばなら海面が輝くのかと思って、参考までに多度津港で夜景を撮影してみた。

多度津港の青灯台への防波堤から北の海を見る。
中央の港外に島影も見えるはずだが、少しコントラストをあげてみても真っ暗
H27.11.29 H27.11.28

満月の夜・・北側の海は真っ暗 (向こう岸に光源があるとそこだけは海面に反射して光の帯が出来る。)
H27.12.25 満月

今度は振り返って陸側を見る。月の光に反射する海面が見える。
(あいにく薄雲がかかってしまった。中央奥には遠くに飯ノ山が見えている。)
H27.11.29 H27.11.28

  別の日の満月の夜・・海面に光の帯、西行は三野津湾でこれを、こちら側から向こう岸まで「敷き渡す月の氷」と詠んだ。
H27.12.25 満月

これで赤松景福のいう「『曇りなき山にて海の月見れば』の歌は 白方の海辺 へでもいって詠んだ歌だろう」といういい加減な発想は否定された。白方の海岸へ行っても海は北にあり、真っ暗なのである。赤松氏は虚構の上に立っていい加減な歌ばかり詠んでいるから、他人もそうに違いないと思っているだけであろう。

西行法師は 三野津 でも海面を氷と見なすよく似た歌を詠んでいる。
  志きわたす月の氷をうたかひて ひびのてまはる味のむら鳥

これも北側に海をみていたならこういう歌は詠めない。
西行の時代には三野津湾も大きく湾入していて、おそらく三野津港は湾の西岸にあって、東を見ると「ひびの手」が立つ湾を挟んで、東側から月が昇っていたのであろう。

とすると、
  曇りなき山にて海の月見れば島ぞ氷の絶え間なりける

とは、西行は見えもしない情景を詠んだのか?「山家集」や白洲正子著の「西行」(新潮文庫)を読む限り答えは「ノー」であろう。西行は関心を持ったところへはどこへでも積極的に訪ね歩き、そこで直接見てから心の奥で感じ取ったものを苦悩をもって絞り出して歌に詠んでいる。晩年には歌を「1首読み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ」とまで伝えられている。心の底からにじみ出るものを歌っているのである。フィクションをもとに歌を詠むような人とはとても思えない。

それならばどういうことか。答えが1つだけ導き出される。

それは、この歌が、西行の時代には「筆の海」が存在したということを証明していることにほかならない。それも上掲の合成写真の左半分(=北半分)ぐらいが海だった、とかいう生やさしいものではなく、現在の吉原小学校はもちろん、この合成写真より更に右の方まで、それこそ筆の山の麓近くまでが海だったに違いない。そうすれば、西行庵から見れば、満月が東の空から上ってくれば、見事に筆の海の向こうに月光が逆光で海を照らし出し、「島ぞ氷の絶え間なりける」の情景が映し出されるのである。

だがまだ物足りない。「氷の絶え間」となる島は、これでは74番札所の甲山寺のある甲山しかない。氷の絶え間が甲山1つでは西行さんは歌を詠まないだろう。

ここで話し変わって、崇徳上皇が讃岐へ流されてきたときに(1156年)、行宮御所の建設が間に合わず、2〜3年間讃岐の国司綾の高遠の屋敷内の別棟に住んだらしい。これは雲井の御所として、今も坂出市林田町に史跡がある。崇徳上皇は毎日の生活に飽くと、歩いて海岸まで行ったそうである。これも林田町浜西辺りの内陸部に「 崇徳院御遊所池 」の碑が建っている。崇徳院の頃は、この辺りは綾川河口の干潟で、どこまでが海でどこからが陸とは言いにくいような砂泥の海だったらしい。

また、『南海流浪記』の 史料紹介 (香川県埋蔵文化財センター 研究紀要 8, 2012.3.26発行)によれば、道範阿闍梨が讃岐に流されたときの(1243年)宇多津は、青ノ山北麓まで入り江が深く入り込んで、大束川河口部に潟(ラグーン)が存在したと推測される」としている。

とすると、筆の海も、弘田川とその支流である二反地川の流域に沿って、砂泥(砂堆)の広がる干潟だったのではなかろうか。「 弘法大師誕生地の研究 」にも、現在に残る地名から、筆の海があったとする説が展開されている。

筆の海−砂堆の想像図(合成写真)



参考までに兵庫県 新舞子海岸の干潟 の写真を示す。


これぞまさしく西行法師の詠んだ「島ぞ氷の絶え間なりけり」ではなかろうか。島とは筆の山や我拝師山から流れてきた砂堆だったのだろう。


「島ぞ氷の絶え間」は干潟であろうとの考えまで至った以上、西の詫間湾への月の入りの可能性はほぼ消えたが、上記にも少し触れたとおり、禅定から詫間湾への月の入りを確認はしておきたい。
しかし海を輝かせられる満月頃の月の入りは夜明け前である。そんな時間帯に禅定に登るのはあまりにも危険である。そこで日の入りで海がどのぐらい輝くのか確認してみたい。
H29年2月に禅定へ登ったら、なんと太陽はほぼ真西にある中山の頂上付近に沈んでしまい、詫間湾に沈むにはほど遠い。
ネットで太陽が沈む方向を確認すると、5月初旬にもっとも北寄りに沈むことがわかった。そこで5月まで待つことにしたが、5月のGWには忘れてしまい、5月後半になってやっと禅定に登った。

日の入りの写真は次のとおり。 太陽では月をイメージしにくいので、念の為白黒に変換してみた。

H29.5.18

H29.5.18

H29.5.18

詫間湾への月の入りを詠んだ歌とするには、ちょっと難点があるのではなかろうか。
 1.月が北寄りに沈む時節しか見れない。
 2.海を輝かすことの出来る満月頃の月の入りを見るには夜明け前に禅定へ登っていなければならない。
 3.禅定から詫間湾をみて「氷の絶え間」と見るには少し遠すぎないだろうか。




西行庵  正面   内部   江戸時代の記録   歌碑   山家集   生木大明神   滞在期間

善通寺   曼荼羅寺   出釈迦寺   禅定寺   人面石   鷺井神社   東西神社
我拝師山   天霧山   七人同志   片山権左衛門   乳薬師   月照上人   牛穴   蛇石
トップページへ


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください