西行法師は弘法大師の生まれた里の山のはにしばらく逗留した。
現在の西行庵からほんの数十秒東へ歩けばご覧の通り、すばらしい眺望が開ける。
右端の形のよい山が飯ノ山、写真中央より少し右寄りの山が青ノ山、その間に遠く広がるなだらかな丘陵が五色台で、その中央付近が崇徳上皇の眠る白峰辺りであろうか。
西行法師は毎日ここから降りて谷川から閼伽井の水を汲んできては祭壇に供え、崇徳上皇の冥福を祈っていたに違いない。
「
山家集
」には、
同じ國に、大師のおはしましける御辺(あたり)の山に、庵結びて住みけるに、月いと明かくて、海の方曇り無く見えければ
曇りなき山にて海の月見れば島ぞ氷の絶え間なりける
と詠んでいる。この歌は山の上から瀬戸内海を見て、月に照らされて波が氷のように見える合い間に島がある様を詠っており、
その意味は、「弘法大師がおいでになった穢れない(曇りない)山の聖地で、一点の曇りもない月に照らされる海を見ると、島は敷き詰めた氷の絶え間(境界)のようだ。」ということであろう。
人の目は望遠にも広角レンズにもなるとはいえ、こういう風景に対して、確かにここから海を見ると少し位置が低いかもしれない。
海に焦点をあわせてみても、海の見える範囲は狭い。
庵居している途中で、時にはもう少し上にある出釈迦寺へ参籠して、そこから海を見たのかもしれない。
しかし、現代人は重要なことを忘れていないだろうか。西行が来讃した
源平の時代
には筆の海があったに違いない事を。
筆の海想像図(合成写真)
筆の海がどれくらい湾入していたのかは想像もしがたいが、写真の左半分程度であったとしても、西行の見た風景には眼下にかなりの海が広がっていたのではなかろうか。
なにはともあれ、実地検証してみないと話にならない。西行庵から満月の日の夜景を見てみたいのだが、昨今イノシシの増加で、夜中に山中を歩くのは危険である。
そこで少し上にある出釈迦寺辺りから海を見てみて、驚いた。(同じ場所から撮影した昼と夜の写真を下に示す。)