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「水茎の岡の西行庵」


 
西行の歌を集めた「山家集」(さんかしゅう)に吉原付近のことが書かれている。

「山家集金槐和歌集 日本文学大系29」風巻景次郎・小島吉雄校注、S36.4.5 岩波書店発行













同じ國 に、大師のおはしましける御辺(あたり)の山に、庵結びて住みけるに、月いと明かくて、海の方曇り無く見えければ

曇りなき山にて海の月見れば島ぞ氷の絶え間なりける

西行庵は、善通寺南大門の南の「久の松庵」と吉原の「山里庵」とがあるが、この歌は山の上から瀬戸内海を見て、月に照らされて波が氷のように見える合い間に島がある様を詠っているので、山里庵の付近で詠ったものと分かる。(久の松庵は内陸の平地にあるから海は見えない。)

その後に続く12首の歌の中にも山を詠ったと思われるものがいくつもある。

 第4首目:松の下は雪降る折の色なれや 皆白妙に見ゆる山路に
 第8首目:折しもあれ嬉しく雪の埋ずむ哉 かき籠もりなんとおもふ山路を
 第9首目:中々に谷の細道埋め雪 ありとて人の通ふべきかは
 第10首目:谷の庵に玉の簾を懸けましや 縋る垂氷の軒を閉ぢずば
 第12首目:岩に堰く閼伽井の水のわりなきは 心澄めとも宿る月哉

「住みけるまヽに、庵いと哀れにおぼえて」というのも、総本山善通寺の近くの庵というよりは山里の寂しさを現していそうである。「久に経てわが後の世をとへよ松・・・」の歌は南大門近くの「久の松庵」で詠ったものとするのが通説になっているが、この12首の流れからすれば、この歌も山里庵で詠ったものととれなくはない。

「岩に堰く閼伽井の水・・・」は久の松庵で詠んだものとする説があるが、平地の久の松庵付近というよりは、山里庵から谷川を下っていったところ辺りを指しているとする説もある。毎日山里庵から谷川まで下りていってきれいな水を汲み、山里庵の祭壇に供えていたものと思われる。

大師の生まれさせ給(たまい)たる所とて、廻(めぐ)りの仕廻(しまは)して、その標(しるし)に松の立てりけるを見て

 哀れなり同じ野山に立てる木のかヽる標の契りありける

又ある本に
曼陀羅寺の行道所(ぎゃうだうどころ)へ登るは、世の大事にて、手を立てたる様なり。大師の、御經書きて埋ませをりましたる 山の峯なり。坊の外は一丈ばかりなる壇築(つ)きて建てられたり。それへ日毎に登らせおはしまして、行道しをりましけりと、 申(まうし)傳(つた)へたり。巡り行道すべき様に、壇も二重に築き廻されたり。登る程の危うさ殊に大事なり。構へて 這ひまはり着きて

 廻り逢はん事の契りぞ有がたき嚴しき山の誓ひ見るにも

やがてそれが上は、大師の御師に逢ひまゐらせさせをりましたる峯なり。わがはいしさと、その山をば申すなり。その邊の人はわがはいし とぞ申ならひたり。山文字をば捨てて申さず。又筆の山とも名付けたり。とほくて見れば筆に似て、まろまろと山の 峯の先の尖りたる様なるを申慣はしたるなめり。行道どころより、構へてかきつき登りて、峯にまゐりたれば、師に あはせおはしましたる所の標に、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎、計りなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける 塔の跡と見ゆ。苔は深く埋みたれども、石大きにして露(あらは)に見ゆ。筆の山と申(もうす)名につきて

 筆の山にかき登りても見つるかな苔の下なる岩の氣色を

善通寺の大師の御影(みえい)には、側にさしあげて、大師の御師書き具せられたりき。大師の御手などもおはしましき。 四の門の額少々破(わ)れて大方は違はずして侍(はべり)き。末にこそいかヾなりなんずらんとおぼつかなくおぼえ侍(はべり)しか。


山家集では、我拝師山と筆の山が混同されているようだが、これは西行法師が誤解したのかそれとも当時の地元の人が隣接する2つの山をあまり区別していなかったのだろうか。

「山家集の研究 西行辞典」 の「あ」「こ」「せ」「そ」「た」「ち」から歌の解釈を抜粋すれば、
・おはしましける御あたりの山
 善通寺周辺の山のことだが特定はできない。筆の山だと解釈しても良いと思う。
・世の大事
 登っていくのは大変困難なこと、難儀すること。
・てをたてたるよう
 垂直に切り立った崖
・御経かきてうづませ
 御経を書いた紙を土中に埋めること。「経塚」と言いますが、経塚が発見されたということは私は知りません。本当に埋めたのだとしたら、未発見なのでしょう。
・ばうのそと
 「坊の外」、建物の外。
・めぐりあはむ
 大師が釈迦と出会ったという伝説から来ている。
・大師の御師
 空海の師ということで釈迦のこと。
・御師にあひまゐらせさせ
 我拝師山の出釈迦寺では空海が釈迦に逢うために断崖から飛び降りたという伝説がある。飛び降りて地中に激突する前に釈迦に救われたとする伝説。空海を聖性化する過程で作られて、西行の時代には広く知られていたものであろう。
・筆の山ともなづけ
 現在では我拝師山と筆山は別の山としてありますが、西行時代は筆山は我拝師山や中山と一続きの山として見られていたものであろう。
・なめり
 断定の助動詞「なり」の連体形「なる」に、推量の助動詞「めり」が接合したことば。「なるめり」の凝縮化されたもの。「…のようだ」「…だろう」という意味。
・行道所
 「行道」とは読経しながら仏像や仏殿の回りを巡り歩く通路のこと。出釈迦寺の奥の院「禅定寺」であろう。
・かきつき登り
 「掻き付き登り」、しがみつくように登る。「筆の山」の筆と「書き」とを連想させている。
・塔の礎
 建物の柱の下の土台の石のこと。
・高野の大塔
 高野山金剛峰寺の中央にある宝塔のこと。平安時代でも高さ48.5メートル、本壇回り102.4メートルという巨大な建物だった。
・四の門の額
 東西南北の四方に山門があったということ。大師自筆の「善通之寺」という額があったようだが、今はない。

・曇りなき山にて海の月見れば島ぞ氷の絶え間なりける
 「弘法大師がおいでになった穢れない山の聖地で、一点の曇りもない月に照らされる海を見ると、島はしきつめた氷の絶え間のようだ。」

・岩に堰く閼伽井の水のわりなきは 心澄めとも宿る月哉
 「岩に堰かれて溜まっている閼伽の水を汲む井は、おかしなことに一方では、妨げられることなく心を澄ませよ、とばかりに澄んだ月が姿を映していることよ。」

・せく
 堰くのこと。水などが堰き止められていること。
・わりなきは
 普通には(道理に合わないこと)を意味します。この言葉の解釈はむつかしく、「格別にすばらしいこと」という説もあるそうです。
・しきみおく
 (樒置く)という意味。樒とはシキミ科の常緑樹。枝を仏事に用います。用具の上に樒を置くこと。
・あかの
 (閼伽の)という意味。閼伽水を入れた容器をも指しています。
・をしき
 閼伽水を入れた容器を載せる為のお盆のこと。縁のついているお盆なので、霰が転がり落ちないということです。
・(あか井の水)
 閼伽井の水。閼伽とは仏教用語で(貴重な)とか(価値あるもの)という意味を持ち、普通には仏前に供える清らかな水のこと。あか井とは、仏前に供えるための水を汲むための井戸。その井戸から汲まれた水が「あか井の水」。


「大師の、御経かきて埋ませをりましたる山の峰」の経塚とはどこにあるのであろうか。 香色山 山頂からは12世紀造営の経塚がみつかっているが、12世紀といえば西行が来たころか。弘法大師(774〜835)が埋めようとしたなら時代が違いすぎるが、後世の人が大師の書いたお経を埋めたのなら時代は合う。香色山は五岳山連峰の1つであるから、「御経かきて埋ませをりましたる山」が香色山で、(その山に連なる)「峰」が行道所のあった我拝師山、というのはどうであろうか。


ところで、西行法師はどこから讃岐に上陸したのであろうか?
坂出市 王越 に上陸して山越えして白峰へ向かったとする説や、 三野津 へ上陸して善通寺、白峰へ向かったとする説がある。
また、西行が白峯御陵を参拝した後、善通寺に向う途中で立ち寄って植えたという 西行三本松 が丸亀市柞原の高幢神社に残されている。

「山家集」は後世に編集されてしまったようなので、訪問順序がわからないが、「山家集」に出てくる順序は、
児島(西国修行の途中)→・・・→松山の津→善通寺・吉原→児島→日比・渋川→塩飽・真鍋島→牛窓→紀州潮岬→伊勢答志島→二見浦→伊良湖→宇治川→新宮より伊勢へ→賀茂→熊野→三野津→(木曽経由)→都へ→嵯峨野
である。後世の人によって編集されたせいなのか、順番は随分とマチマチである。三野津の歌は、訪ねた順序とは関係なく、月の歌ばかりを集めた中に入っているようにみえる。ところが山家集の 別本 を見ると、松山の津へ行く前にこの三野津の一連の月の歌が入っている。
白洲正子氏がその著書 「西行」 で述べるように、毎日の崇徳上皇鎮魂の祈りに物憂くて、瀬戸内海へ浮かれ出て、島や海岸を訪ね歩いただけで、四国来訪の順路ではないのか?







西行庵  正面   全景   説明板   内部   江戸時代の記録   歌碑   生木大明神   滞在期間   讃岐での足跡

善通寺   曼荼羅寺   出釈迦寺   禅定寺   人面石   鷺井神社   東西神社
我拝師山   天霧山   七人同志   片山権左衛門   乳薬師   月照上人   牛穴   蛇石
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