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讃岐での西行足跡
(謂れ) | 西行法師略暦 | 南無地蔵第菩薩由来 |
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鳥啼いて山更深し松風に 谷間を照らす弓張の月 西行法師ガ當地高見峰大礫ノ 大崩潰巡錫ノ際其惨状ヲ見テ西 院ノ川原谷其他地獄谷、釜ノ谷、佛 坂、釈迦谷等ヲ命名サレタ傳説ガアル。 又川原谷ノ岩窟カラ冷水ノ噴出スルノヲ 発見サレタ。此霊泉ハ長續ノ干天ニモ 水量ハ減ラズ、干天時、飲料水及ビ 厄難諸病ニ霊験アリ。長ク里人ニ 愛用セラル。 昔谷奥ニ大蛇ガ居テ人畜ニ危害 ヲ加ヘル爲弓ノ名人戸継八郎ガ毒弓 ヲ持テ之ヲ退治セリ。中央ノ地蔵ハ 高松藩主生駒一正ノ慶長年間ナリ。 昔西行地蔵堂ハ高見峰山麓ノ川原 崎ニ文政年間ニ石工天王寺屋ニテ 祀リシヲ、昭和六年十月二日免△ 有志者ニヨリ當地ニ安置セリ。 毎年旧七月十四日當所ニ於テ法要ヲ営△ 當時ノ奉仕者導師 (氏名省略) 西行晩年の作 願わくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃 ・・・・・・・・ ・・・・・・・ (以下は筆跡が異なるので、別の人が 書き足したか?) 高見峰山麓の川原谷は昔は △原との名稱で在た △△有名は笑止の歌 西行は難行苦行はしたけれど 萩の下敷き之がはじめて 萩の発祥地はこの坂の上の △△△ 昭和五十二年五月八日 四国新聞掲載さる 現地綾上町羽床上字安帽子 一九八六番地の一 長谷 | 西行法師之祖先は天慶の乱に平将門を 誅し大功之有た俵藤太秀郷の九世の裔に 當る 西行之誕生は鳥羽天皇の元永元年にて 佐藤右エ門尉憲清と稱す 加冠直後權 大納言徳大寺実能之隨身となり後 鳥羽 天皇乃北面武士として奉仕す 兵法に精しく 射御之術に練達せし颯爽たる武士にして又 天賦之詩才あり 保永六年十月十五日出家 法名は圓位 年廿三才 妻子を捨て僧となり 諸国を行脚す 皇室は鳥羽 崇徳 近衛 後 白河 二条 六条 高倉 安徳 後鳥羽天皇の 九代に亘る 讃岐巡遊は仁安二年 後白河天 皇院政平清盛太政大臣之時にて年五十才 頃なり 備前児島日比より乘船 三豊郡三 野津に上陸し松山に着き崇徳天皇の御遺跡 白峯御陵に参拝し頓證寺の墓前の 岩上に座して終夜供養す 其際西行と崇徳院 乃魂が出合ひ物語せり 拝殿前の大銀杏の下の 岩上に有る西行の石像は今に当時を忍ばれる 又 石像と歌碑は昭和四十三年附近有志の寄進 に依り建設せり 白峯の西下の坂の林に西行が在住 した旧跡有り 善通寺南大門乃西 玉泉院の蓮 庵に長らく住居す 帰る時庭前の老松に籠て 別れを惜しむ 曼荼羅寺には西行法師笠掛 桜及び昼寝の石の遺跡あり 亦吉原村水莖岡 に寓し附近を歴訪し詠歌を現す 滞在中曲水 式枯山水の庭園は西行が造りし物にて今に残て居る 又三井之江には西行の有名なる歌の碑有り 善通寺 在住中全国に大水害有り 其後西行は瀧宮を探 勝し羽床奥地高見峯山大礫の崩潰した跡を 巡視せられたり 西行晩年は京都洛中洛外 高野山伊勢におちつく 西行は文治六年二月十 六日河内国石川郡醍醐寺三寶院の末寺 弘川寺にて臨終は立派で十念乱れず成仏す 行年七十三才 合掌謹識 西行歌抄 自ら岩に勢かれて諸人に ものおもはする綾川乃水 瀧宮 久に経て我が後の世をとへよ松 跡しのぶべき人も無き身そ 玉泉院 久之松 昔かし見し松は老木になりにけり 我が年経ける程もしられて 備前 児島 八幡宮 昭和四十八年丑癸八月吉日 泉明満 | (字が薄れて判読しにくいので、割愛) |
正面 | 四國十二景 瀧宮綾川 大阪時事新報社 瀧宮旧蹟顯彰會 石材寄贈者 香西平次 昭和三年五月建之 |
背面 | 崇徳帝御製 綾川や岩戸の・・・せゝの水にや年を経ぬらん 菅公御詠 綾川や さひてわれたつ浪枕音羽に通(へ)瀧の松風 西行法師詠 自ら岩に勢かれて○(諸?)人にもの思はする綾川の水 |
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