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讃岐での西行足跡


 
西行法師についてのその他の史跡

「山家集」には出てこないのも含めて、讃岐にもいくつか西行法師の足跡について伝承が残されているようだ。

(1)綾川町羽床上の 西行法師の石像
(2)綾川町滝宮の 西行法師昼寝岩
(3)丸亀市柞原の 西行三本松
(4)坂出市青海町の 西行の笈掛石
(5)屋島登山道の 畳石・西行歌碑
(6)曼荼羅寺の 笠掛桜
(7)出釈迦寺の 西行法師歌碑
(8)我拝師山禅定参拝道の 西行法師腰掛石
(9)国分寺町伽藍山万灯寺薬師堂の 西行塚
(10)その他 いろいろ



 
羽床上の西行法師の石像

西行法師の石像マップ(「 綾川町要覧 」より・・・D/Lにはかなり時間がかかります。)
H29.2.18

法師越(ほしごえ)・・・県道185号線沿いの四国自然歩道案内板より
現在地付近の白い線が県道185号線、茶色の太い線は細い山道です。
H29.2.18

「西行法師の石像」道標・・・県道185号線沿い、羽床上(まんのう町境よりかなり手前)
H29.2.18

矢印が石像のお堂(道路からはほとんど見えない)
H29.3.14

笠をかぶった法師像・・・「綾川町要覧」によれば、このあたりは安帽子橋(休み法師がなまったらしい)
 H29.2.18
綾川町萱原の 法然寺 には「帽子をかぶった高地蔵」というのがあり、こういう造形はこの地方特有の傾向なのだろうか?

右端の石像の台座には「建久九戊 二月十四日」の文字が見える。(石像と台座は一体物である。)
H29.3.18
建久9年(1198)は戊午(つちのえ・うま)年である。年号を書くなら「建久九午」年と書くか「建久九戊午」年と書くのが普通である。「建久九戊」とはなんだか奇妙である。
昔は右から左へ書くから、「戊」の左に「午」を書くのが普通であり、そこにちゃんとスペースもあるのになぜ書き入れなかったんだろうか。十四日もよく見ると「日」とは彫られていない。(「H」のような形に彫られているように見える。)
ちょっと胡散臭いところも感じるが、1198年といえば西行没(1190)後8年しか経っていない。こんな山奥でどうしてこんなに早く法師像を建てることになったのだろう。

お堂内部の謂れの説明板(お堂内には謂れと西行法師略歴と南無地蔵第菩薩由来の3枚の説明板がある。)
H29.2.18

鳥啼いて山更(に)深し △間を昭す・・・・
もはや読みづらいが、「西行法師が當地高見峰・・大崩潰(?)巡錫・其の惨状・・」などが読める。
西行法師が大高見峰の山崩れ災害を視察に来たらしい。

この(謂れ)の説明板の内容にかなり近いものがネット上に掲載されている(「 西行を愛する人々 」)ので、これを元に、上掲の説明板の内容を読めない所はエイヤッで想像して、次にまとめてみた。(△は判読難)

<安帽子の西行石像の説明文>
(謂れ)西行法師略暦南無地蔵第菩薩由来
鳥啼いて山更深し松風に
   谷間を照らす弓張の月
西行法師ガ當地高見峰大礫ノ
大崩潰巡錫ノ際其惨状ヲ見テ西
院ノ川原谷其他地獄谷、釜ノ谷、佛
坂、釈迦谷等ヲ命名サレタ傳説ガアル。
又川原谷ノ岩窟カラ冷水ノ噴出スルノヲ
発見サレタ。此霊泉ハ長續ノ干天ニモ
水量ハ減ラズ、干天時、飲料水及ビ
厄難諸病ニ霊験アリ。長ク里人ニ
愛用セラル。
昔谷奥ニ大蛇ガ居テ人畜ニ危害
ヲ加ヘル爲弓ノ名人戸継八郎ガ毒弓
ヲ持テ之ヲ退治セリ。中央ノ地蔵ハ
高松藩主生駒一正ノ慶長年間ナリ。
昔西行地蔵堂ハ高見峰山麓ノ川原
崎ニ文政年間ニ石工天王寺屋ニテ
祀リシヲ、昭和六年十月二日免△
有志者ニヨリ當地ニ安置セリ。
毎年旧七月十四日當所ニ於テ法要ヲ営△
 當時ノ奉仕者導師
   (氏名省略)
 
西行晩年の作
願わくは花の下にて春死なむ
   その如月の望月の頃
・・・・・・・・
   ・・・・・・・
 
(以下は筆跡が異なるので、別の人が
  書き足したか?)

高見峰山麓の川原谷は昔は
△原との名稱で在た
△△有名は笑止の歌
西行は難行苦行はしたけれど
萩の下敷き之がはじめて
萩の発祥地はこの坂の上の
△△△
昭和五十二年五月八日
四国新聞掲載さる
 
現地綾上町羽床上字安帽子
一九八六番地の一 長谷
西行法師祖先は天慶の乱に平将門を
誅し大功有た俵藤太秀郷の九世の裔に
當る 西行誕生は鳥羽天皇の元永元年にて
佐藤右エ門尉憲清と稱す 加冠直後權
大納言徳大寺実能隨身となり後 鳥羽
天皇北面武士として奉仕す 兵法に精しく
射御術に練達せし颯爽たる武士にして又
天賦詩才あり 保永六年十月十五日出家
法名は圓位 年廿三才 妻子を捨て僧となり
諸国を行脚す 皇室は鳥羽 崇徳 近衛 後
白河 二条 六条 高倉 安徳 後鳥羽天皇の
九代に亘る 讃岐巡遊は仁安二年 後白河天
皇院政平清盛太政大臣時にて年五十才
頃なり 備前児島日比より乘船 三豊郡三
野津に上陸し松山に着き崇徳天皇の御遺跡
白峯御陵に参拝し頓證寺の墓前の
岩上に座して終夜供養す 其際西行と崇徳院
魂が出合ひ物語せり 拝殿前の大銀杏の下の
岩上に有る西行の石像は今に当時を忍ばれる 又
石像と歌碑は昭和四十三年附近有志の寄進
に依り建設せり 白峯の西下の坂の林に西行が在住
した旧跡有り 善通寺南大門西 玉泉院の蓮
庵に長らく住居す 帰る時庭前の老松に籠て
別れを惜しむ 曼荼羅寺には西行法師笠掛
桜及び昼寝の石の遺跡あり 亦吉原村水莖岡
に寓し附近を歴訪し詠歌を現す 滞在中曲水
式枯山水の庭園は西行が造りし物にて今に残て居る
又三井之江には西行の有名なる歌の碑有り 善通寺
在住中全国に大水害有り 其後西行は瀧宮を探
勝し羽床奥地高見峯山大礫の崩潰した跡を
巡視せられたり 西行晩年は京都洛中洛外
高野山伊勢におちつく 西行は文治六年二月十
六日河内国石川郡醍醐寺三寶院の末寺
弘川寺にて臨終は立派で十念乱れず成仏す
  行年七十三才 合掌謹識
 西行歌抄
自ら岩に勢かれて諸人に
  ものおもはする綾川水 瀧宮
久に経て我が後の世をとへよ松
  跡しのぶべき人も無き身そ 玉泉院 久之松
昔かし見し松は老木になりにけり
  我が年経ける程もしられて  備前 児島 八幡宮
昭和四十八年丑癸八月吉日
             泉明満
(字が薄れて判読しにくいので、割愛)












「谷奥に大蛇が居て、弓の名人戸継八郎が弓矢で退治した」というのは、羽床ではなく、塩江の安原百々渕で戸継八郎が 大蛇を退治 したという有名な伝説が羽床にも伝わってきて、それをここに書いただけではなかろうか。「谷奥」というのは綾川か香東川の奥であろう。

「西行地蔵堂は文政年間に石工天王寺屋にて祀っていたのを、昭和六年十月二日当地に安置した」というのは、ここの西行石像のことだろうか。この石像は台座と一体になっており、台座に建久9年と彫られているから、文政年間に石工が彫ったものではない。しかし、石工天王寺屋が建久9年に造られた石像を文政年間に「祀っていた」というならこの石像のことであってもおかしくはない。しかし、文面からは西行石像ではなく、残りの2体の石像のいずれかと取った方が自然なんだろうか。

昭和52年5月8日の四国新聞 は、西行法師の全般的な記事が主体であるが、高見峰近くの石像付近の写真が載っている。

西行法師略歴の説明板
H29.3.14

上掲の略歴中、次の点は間違いではあるまいか?

・「佐藤右エ門尉憲清」とあるが、「左兵衛尉」では?
・「保永六年十月十五日出家」は、保延6年(1140)の誤記
・「白峯御陵に参拝し頓證寺の墓前の」とあるが、西行が陵墓に参拝したときにはまだ頓證寺はなかったのでは?(山の中に陵墓だけが寂しく存在した筈)
  ネット検索すると、
   仁安2年(1167)または3年(1168) 西行、崇徳院の陵墓参拝
   建久元年(1190) 鼓岡の木の丸殿を白峯に移築して、法華堂を建てた。
   応永21年(1414) 後小松天皇自筆の「頓證寺」勅額を奉納し、頓證寺となった。
   延宝8年(1680) 高松藩主により頓證寺殿と勅額門再建
・ささいなことだが、「昭和四十八年丑癸」は十干十二支の順序が逆。「癸丑」とするのが普通。

     左側の「南無地蔵第菩薩由来」の説明板(読み取れないがご参考まで)
H29.3.24
「狐か狸にだまされ」とかが読め、なんだか童話のような内容かもしれないけど、一体何が書かれているのであろうか?


「讃岐のお地蔵さん」 (中原耕男・阿津秋良 著, S56.8.10, ふるさと研究会 発行)より
安帽子のお地蔵さん



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<法師越>

法師越(遊歩道・林道の峠)
H29.3.14  H29.3.14

西行法師行脚像−木製の看板はもう読み取れないが、平成九年十二月  法師越 金剛院△△ と書かれていたようだ。
(お堂の上棟は平成九年十一月吉日)
H29.3.18

石像の台座石には「西行法師 文政十一年 子四月吉日」と刻まれている。
H29.3.18

ところで、台座石は前後で2分割になっている(もしかして割れた?)。
H29.3.18
左側面には「話人 金剛院 弥惣右エ門」と彫られている。ちょっと変!
本来は「 世話人 」と彫ってあったのではないのか?それにしては上にもう1文字のスペースは無い。

県道185号線側から車で林道(遊歩道、道は狭いがところどころに待避所あり)を法師越まで行ける。
H29.3.14

県道190号線側からは、途中の大柞池を過ぎた先の変則3分岐で、右側の細い林道・星越線を登る(赤い→)。遠い。左端の道を行くと金剛寺。
H29.3.18

金剛寺
H29.3.14

この看板によれば、「阿弥陀越」や「法師越」は修験者が仏教にちなむ地名を付けただけではないのか。西行法師に結びつけるのはおかしい?
H29.3.18



「綾上町誌」(S53.3.1 香川県綾歌郡綾上町発行、綾上町教育委員会編集)によれば、西行に関する足跡がいくつもあるようだ。
「綾上町誌」

建久9年は西行没後8年しか経っていない。そんなに早く西行法師として石像を刻んだのは不思議であるが、 随分たくさん西行にちなむ伝承が残っているようだから、これは実際に西行がこの地に来たのかもしれない。ちょっと仮説( 妄想 )をしてみたい。

「綾上町誌」にあるわらべ歌はこれだけでは何のことやら分からない。
上掲の「西行を愛する人々」のページには面白く書かれている。引用させてもらうと次のとおりである。

綾上にはまだ「西行も一本参った歌問答」がある。
西行が峠を越えていると、子供たちが蕨を採っているのに出くわす。
 「そこにおるのは童じゃないか。ワラビ(火)採って手を焼くな」と西行が呼びかけたのに対して
 「そこにおるのは西行さんじゃないか。ヒ(火)ノキの笠で頭焼くな」と童にやりこめられて、西行はたじたじとなる。
更に歩き続けて麓の墓地で火葬の煙が立っているのを見て「昨日の煙に今日の煙明日の煙に誰がいくらむ」とつぶやく。
一夜を明かして翌日も煙が立ち上るのを見ても歌が作れないでいると、墓地の中から声がして
 「昨日の煙に今日の煙眺めて通る人はいつまでか」
この歌句に西行はショックを受けたのか、その後歌を詠むのを止めてしまったと伝えられている。


「讃岐廻遊記」(進藤政量:寛政11年(1799)3月著,文政10年(1827)6月18日西岡作藏親賢:写終「香川叢書 第三」収載)には、次のように書かれている。
法師越
 羽床村隣にて、此地は炭所種子より金剛院へ越る峠也。倩考るに、西行上人の此筋を通行せし事顯然たり。歌もあるよし。
西行峠
 上羽床・下羽床境にて、炭所種子へ越所也。近年風雅の人、西行上人の石像を建つ。四五町隔て山を下り、俗にやすほしと云地名有。是則西行上人の休給ひし所也と。文字意、休法師也といゑり。

「近年風雅の人、西行上人の石像を建つ」というのは、寛政11年のことか、それとも文政10年のことか。いずれにせよ現在の法師越の台座石(文政11年)の上にある石像とは別ということか?
「綾上町誌」にも「長谷 西行峠」と書かれているが、長谷(ながたに)地区で数人に尋ねてみてもだれも「 西行峠 」というのは知らないが、どういうことか?
「綾上町誌」は昭和53年に発行されていて、「西行さんといわれる小堂」の写真と「安帽子の石像」の写真が同時に載っているから、安帽子の板書きにある「昭和6年に移設」後も、これらの写真どおりのものはあったはずであり、西行峠の石像が安帽子へ移動されたわけではない。従って西行峠には依然として西行の石像があるはずである。


<羽床上の西行石像群についての考察>

羽床上の西行石像の建立変遷

羽床上の各地にある西行像群の建立年代を並べてみると、次の表のようになる。


地蔵菩薩像の石仏が作られ始めたのは1600年頃以降ではなかろうか?→ 稲城市の例

一方、「讃岐のお地蔵さん」(S56.8.10 中原・阿津共著)によれば次のように、地蔵の由来はまったく異なるが、法要日がなんとなく似ている。
(参考:地蔵盆は旧7月24日)
地蔵は「高さ20cmばかり」とのことだから、左端の石像がお地蔵さんであることは間違いなかろう。
また「阿弥陀さんは龍に因縁?」があるらしいが、 戸継(別子)八郎の大蛇退治 のことではないのだろうか。
「別子」は塩江町安原附近の地名らしい。 (それにしても伝承はまちまちで、何が正しいのかわからない。)


上記を矛盾無くつなごうとすれば、「阿弥陀像は(大蛇供養のため?)生駒一正の慶長年間に既に作られていて、石工天王寺屋が文政年間に(西行石像を造り)、川原崎の西行地蔵堂に西行像と阿弥陀像を祀っていた。その後明治中期に伊予から来た地蔵さんも川原崎の西行堂に一緒に祀っていたが、昭和6年にそれを一切合切、安帽子橋に移設した」と考えればよかろうか。

上の表からわかるのは、西行法師像については、ほぼ文化・文政時代にあちこちに西行の足跡を追って石像を建てた、ということが言えそうである。
それなのに、安帽子の西行石像の台座の年号だけが他と比べて極端に古すぎる。
一般に、戦国時代の1500年代頃の墓(五輪塔)があちこちに残されているが、みんな石が風化してボロボロである。それなのに安帽子の西行石像はなぜこんなに原型を保っているのか? 800年にも亘って屋根が維持されていて風化を免れたとも思えないが・・・。(1500年頃の一般的な石材は凝灰岩か?)
特に、丸彫りの石仏が作られ始めたのは江戸時代中期以降のことらしい。

台座に刻まれている建久9年2月14日というのは、後世になって(例えば文化・文政時代に)西行法師の石像を建立することになって、西行法師の命日(文治6年2月16日)を彫ろうとしたのではなかろうか。ところが、命日が分からなくて間違ったとは考えられないだろうか?
ちなみに、西行が亡くなった文治6年の4月には改元されて建久元年となっている。命日を調べるに当って、建久元年二月十六日という手書きのかすれた古文書を読み間違って、建久九年二月十四日と読んでしまった可能性はないだろうか?

「電子くずし字字典」よりよく似た形を抜粋
 
「元」→「九」の読み違いは起きそうである。「六」→「四」の読み間違いはちょっと起りにくそうだが、原本あるいは書写が勘違いして14日と書いた可能性もある。
(そんなことを言い出したら切がないといわれそうだが、「建久九戊 二月十四日」に疑問がある以上、理由を考えざるを得ない。)
ちなみに、釈迦入滅は旧2月15日であり、京都東福寺では涅槃会を旧2月14日に相当する3月14日に行っているそうだ。

文治6年(=建久元年、1190年)は庚戌(かのえ・いぬ)年である。古文書には建久元戌年と書いてあったのではないだろうか?
(参考:国分寺町の伽藍山の 西行塚 には、西行の命日を「文治」ではなく「建久元庚戌大二月十六日遷化」と刻んでいる。)
建久元年を建久九年と読んでしまい、建久9年は戊午(つちのえ・うま)なので、変だとは思いながらも「建久九戊」と「戊」を右へ寄せて彫ったのではなかろうか?
困るのは、自分の方が正しいと信じ込んで「建久九年戊午」と勝手に書き換えてしまう輩がいることである。こうなると疑う余地がなくなって間違った歴史ができてしまう。疑問は謙虚にそのまま残してくれたことは有り難いことである。

ここでやっと、いろいろ多方面の資料を漁っているうちに忘れてしまっていたことに気がついたが、 西行法師の来讃時期と滞在地 で既に引用済みの   「西行物語」の成立時期をめぐって  を見ると、
と書かれている。

釈迦入滅は旧暦2月15日で、沙羅双樹の間にて享年は80歳(満年齢)だそうだが、双林寺の念仏聖・俗聖が、西行の没日を何が何でも釈迦入滅と同一にしたかった、ということだろうか。西行の生年は元永元年(1118)であるから、満80歳は1198年すなわち建久9年となる。文治6年2月16日河内国弘川寺で没(享年73歳)という正伝に対して、建久9年2月15日双林寺にて没(享年満80歳)、と釈迦入滅にぴったり合わせるように捻じ曲げたのであろう。

安帽子橋の西行像が、この巷の西行入寂日説を刻んだのであれば、台石の年号のナゾは一挙に解決・・・と言いたいが、もしそうなら堂々と「建久九戊午」と彫るであろう。なぜ「戊」を右へ寄せただけの中途半端な彫り方をしたのか?、まだ何かいわくがありそうである。
しかし、いずれにせよ、建久9年はこの西行像の建立年ではなく、西行の没日を彫ろうとしたことに間違いはなかろう。

「石工天王寺屋が文政年間に、川原崎の西行地蔵堂に祀っていた」のが西行像と阿弥陀像だったとすれば、阿弥陀像は慶長年間のものを持ってきて、西行像は文政年間に石工天王寺屋が (巷間に伝わる西行の命日を入れて) 彫ったのではなかろうか。

猫山 2005/02/5 西行法師を偲んで、法師越えを行く 」というホームページには、西行法師石像の写真とともに、「道路の勾配がきつくなってくる所に、西行法師の石像がある。文政11年に石工天王寺屋によって作られ、昭和50年にこの小屋が出来たと書かれてある。可愛い素朴な表情をした法師像だ。」と書かれている。
このホームページの日付は2005(H17)/2/5であろうか。今から12年前にはこのように書かれたものがあったのだろうか。もしそうなら、安帽子の西行法師石像は文政年間に作られたことが決定的だ。しかし、文政11年といえば、法師越の西行行脚像も同じ年に作られているが、混同してはいないのだろうか。それとも同じ年に2つの西行像が作られたのか? また「昭和50年にこの小屋が出来た」ということだが、その3年後に発行された「綾上町誌」の写真に載っている写真の小屋は出来てから3年しか経っていない小屋にしてはみすぼらしい? 話はそれるが、お地蔵さんの頭はS53年にはあったが、H17年にはなくなっていたことは、このホームページから分かる。

安帽子の西行石像はそんなに古くはないのではないか、という疑問はあるにしても、文化・文政時代にこれだけ羽床上に西行石像を建立したのには、この地に何か西行にまつわる根拠があったのではないかと思いたい。



 

H29.2.18滝宮の西行法師昼寝岩

滝宮天満宮の西に滝宮神社があり、随神門をくぐるとすぐ左側に、「法然上人 念仏修行石 」がある。そこから更に綾川東岸に向ってほんの少し歩けば、次の「瀧宮綾川」の碑がある。「西行法師昼寝石」はその先にある。

H29.2.18 H29.2.18

<瀧宮綾川の碑の刻字>
正面四國十二景 瀧宮綾川
 大阪時事新報社 瀧宮旧蹟顯彰會
 石材寄贈者 香西平次 昭和三年五月建之
背面崇徳帝御製 綾川や岩戸の・・・せゝの水にや年を経ぬらん
菅公御詠  綾川や さひてわれたつ浪枕音羽(へ)瀧の松風
西行法師詠 自ら岩に勢かれて○(諸?)人にもの思はする綾川の水
3首ともネット検索しても出てきません。信憑性や如何に?
「綾南町史」(S53)にも「綾南町誌」(H10)にも見つけられない。
西行昼寝岩は正しい伝承なのか?

菅公の歌は「さひてわれたつ浪枕」と書いてあるように思えるのだが、「寂びて割れ立つ」か「錆びて割れ立つ」か?
「咲いて割れ立つ浪枕」なら意味が通じるが、現代語の「咲いて」は「咲きて」から変化したものなので、現代人は知ったかぶりして「咲ひて」と誤ることもあるかもしれないが、菅原道真公の時代には「咲ひて」という言葉がない。従って「さひて」とは「寂びて」か「錆びて」と読めるが、どういう意味か?ちょっと胡散臭さも感じるが、この3首はどこをみたら原本が見つかるのだろうか?

H29.2.18

昼寝岩の背面
H29.2.18



どこかにこれらの歌が掲載されていないのだろうかと思い探していたら、ありました。

「讃岐名所歌集」赤松景福著兼発行、昭和3年3月24日 上田書店発売 (S58.8.10復刻版、丸山学芸図書)より






(以下、省略)

この著者は何にでもすぐ難癖をつけるのが好きな御仁のようだが、ときどきその難癖が頓珍漢なときもあって、信用がならない所もあるのではあるが、こういうときには役に立つ。ここでは、3首とも疑問を呈している。だれの歌やら、どこの土地で詠ったものやらわからないとするのが妥当であろう。

  「あや川にさして我立つ波枕音羽に通ふ瀧の松風」
これならば、「川に棹差して自分が波枕の上に立つ」ということになるから、意味が通る。しかし下の句を「音羽に通う瀧の松風」と読めば、この歌は音羽の滝の前で詠んだことになってしまう。とすると「あや川」というのも固有名詞の川名ではなく、別の一般的な意味があるのではなかろうか。
「音羽に通へ瀧の松風」と読めば、都から遠く離れた地で音羽の滝を偲んでいることになり、意味が通じるが、それなら歌碑に「通へ」と送り仮名をつけるべきである。
いずれにせよあまりよくわからない歌である。

  「綾川や岩戸のすみにあさる鮎瀬々の水にや年を経ぬらん」
よくわからないが、これは帝が詠うほどの品のある歌なんだろうか?



おもしろいことにこの歌碑も本も同じ昭和三年にできている。それぞれ制作期間が必要だろうから、これらが出来る前から3首の歌の真偽論争が既にあったのではないか。金の工面が出来た人が強引に歌碑を建てた、というところであろうか?しかし地元史にも取り上げられなかった?



西行庵  正面  全景   説明板   内部   江戸時代の記録   歌碑   山家集   生木大明神   滞在期間

善通寺   曼荼羅寺   出釈迦寺   禅定寺   人面石   鷺井神社   東西神社
我拝師山   天霧山   七人同志   片山権左衛門   乳薬師   月照上人   牛穴   蛇石
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