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西行の笈掛石


 
坂出市青海町向の向井神社付近にあります。



西行の笈掛石
H29.1.26

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仁安元年神無月 西行法師休息の遺蹟
H29.1.26
西行が白峰御陵を訪ねたのは仁安2年(あるいは仁安3年)となっているから、「仁安元年」はおかしい。
「讃岐名所歌集」赤松景福著兼発行、昭和3年3月24日 上田書店発売 (S58.8.10復刻版、丸山学芸図書)によると
「白峰寺縁起に仁安元年神無月の頃詣でゝとあり、三年の方可なるべし」としていて、仁安三年説を支持している。


「山家集金槐和歌集 日本文学大系29」(風巻景次郎・小島吉雄校注、S36.4.5 岩波書店発行)によれば、
四国へ行けばもう帰れないかも知れないことまで覚悟して(四手=死出の旅)、
仁安2年(3年説もあり)10月に賀茂社に詣でている。


崇徳天皇が大魔縁となって呪っている噂は都でも聞こえてきて、西行は決死の覚悟で出来るだけ早く崇徳天皇の御霊をお慰めしようとしていたであろう。
それなのに、四国へ着いてしばらく乃生で留まり、庵まで結んで暮らすであろうか?上掲の説明板の地図にあるような、王越に西行庵があったという説はちょっと疑問である。(乃生で留まったと書いてあるのは「 撰集抄 」だけであり、撰集抄は誰かが書いた仮託の書、即ち創作らしい。)

「山家集」では次のとおり、讃岐へ着くと真っ先に、松山の津へ赴き、崇徳院が暮らしていた跡(雲井御所や鼓岡の木の丸殿か?)を尋ねたけれども、跡形も無かった、と書いている。
崇徳天皇は長寛2年(1164)8月に薨去(暗殺?)されているので、西行が来た仁安2年(1167)冬には丸3年(仁安3年説なら丸4年)経っている訳だが、建物ももう無かったのか、あるいは暮らしていた痕跡が抹殺されていたのか。
そこで西行は、崇徳院の御墓が白峯にあるのを知って、お参りしている。

「山家集」の通りだとすれば、そして「松山の津」が、現在 記念碑 が建っている通り、雄山の北側の麓にあったのならば、西行はどこかに上陸して(あるいは直接)まず松山の津へ至り、崇徳院の暮らした痕跡を捜した。そして白峰の御墓へ行こうとしたのだが、松山の津が港であったということは、当時雄山の北から東の平地は海であった筈であり、白峰へ登るには少し南の高屋町の山際へ迂回して行かなければならなかった筈である。
従って、上掲の「西行の道想定図」の 王越西行庵 から笈掛石までの緑線で示された経路は考えにくいのではなかろうか。

「山家集」によれば、白峰の御墓参りが済むと、西行はもう弘法大師の里の近くの山辺へ行って庵を結んでいる。これはどういうことか?
西行は滞在が長くなることを知っていたようである。なぜか? 西行は初めから、讃岐院(崇徳天皇)の御墓へ参ったぐらいでは怒りを鎮められないと考えていたのではないか? だから白洲正子氏が 「西行」 で述べているように、弘法大師がお釈迦様に遭われた我拝師山の聖地に留まり、その霊威を頂きながら、なおかつ白峰が遠望できる吉原水茎の岡という場所を見つけ、そこに庵を結んで鎮魂の祈りを続けようとしたのではなかろうか。

「山家集金槐和歌集 日本文学大系29」より


上掲の説明板では、西行は王越町乃生の「みの津」に上陸した、という説を紹介しているが、当時(あるいは現在も)乃生に「みのつ」という地名はあったのであろうか。上掲の地図にもそんな地名は見当たらないが・・。
「山家集」は後日別人によって編集されているそうなので、訪れた順序が分からないが、讃岐の「みのつ」は次のように、「月」の歌ばかりを集めた中に出てくる。従っていつ詠んだ歌か想像のしようもない。前述の白洲正子氏の考えるように、長期に亘る鎮魂の祈りに倦み疲れ、「浮かれ」出て瀬戸内を周遊旅行して帰ってきた港かもしれない。詞書に「讃岐の國へ罷りて」と書かれていることから、ここから上陸して善通寺・白峰へ行ったとする解釈も成り立つが、「月」の歌に集められているということは、讃岐へ来た主たる経路を示しているのではないということであろう。10月に賀茂社にお参りして讃岐へ行く決意をし、都の人への挨拶や同行者との日程調整をして、旅立ったのは恐らく12月頃(新暦では翌年1月)になっていたのであろうから、おそらく冬の季節風が吹き荒れて、三野津のような讃岐の西の方へ船を進めるのは困難であったろう。恐らく児島辺りから船出して、南東に流され、松山の津辺り(あるいは乃生津でも可能だが)へ着くのが妥当ではなかろうか。

昔は陸行より水行の方が楽だったはずだから、直接船で松山の津を目指すだろう(崇徳院配流のときもそうしている)が、冬の北西風により、松山の津よりは対岸からの距離の近い乃生津へ着いたとしても、西行の心情としては「山家集」に書かれている通り、崇徳院の暮らした痕跡をまず訪れたかったに違いない。そこで鎌の刃越えで笈掛石まで来たとしても、笈掛石と松山の津の間は当時入江であった筈だから、そのまま現在の高屋町を南下して迂回しなければ雲井御所や木の丸殿へは行けなかった筈である。しかし西行はそこに何の痕跡も残されていないことを知って、崇徳院陵である白峰を目指すとすれば、白峰の西麓から登るのではなかろうか。西麓には、崇徳院の棺を運ぶ途中で休憩したときに、棺から血が垂れたという「血の宮」( 高家神社 )がある。ということは、崇徳院の棺をここから、荼毘に付した白峰まで運び上げた道があったはずである。白峰の北麓の青梅町には「煙の宮」( 青海神社 )があるが、ここは荼毘に付したときの煙が流れ降りてきた場所であるから、道があったとは限らない。今ここからは「 西行法師の道 」として白峰へ登る道が開かれているが、西行はなぜわざわざ、松山の津から五色台の白峰の北麓まで回ってから、 稚児ケ嶽 へ登らなければならなかったのか。「西行法師の道」は本当に西行が登った道なのであろうか。



編集されているとはいえ、西行自記である「山家集」によれば、上掲の通り、讃岐へ来たという表現が2ヶ所ある。
・「讃岐に詣でて、松山の津と申す所に・・・」
・「讃岐の國に罷りてみのつと申す津に着きて・・・」
の2ヶ所である。辞書を見ると、「詣でる」も「罷る」も「参上する」という意味になるが、ニュアンスが少し異なる。
・詣でる・・・(神社・お墓などに)参詣する。(貴人のもとへ)参上する。
・罷る・・・・参る(「行く」の謙譲語)。(高貴な場所や都から地方へ)下向する。
前者は「高貴なところへ行く」、後者は「高貴なところから下へ行く」という意味合いがあるから、松山の津へは「参詣する」、三野津へは「下向する」という意味合いが感じられる。
とすれば、松山の津へは崇徳上皇を尋ね、三野津へは遊びに行った、ということにならないだろうか。

ところで、白峰を参拝した西行法師が、次に弘法大師の里を尋ねる途中で立ち寄ったのではないかと思われる場所が、丸亀市柞原にある。
西行は丸い石を見つけ、土地の人に謂れを尋ねると、土地の人は「昔この地は住吉大神をお祀りしてあった所」と答えた。西行法師が「(御神体であった)この石は本朝和歌の太祖である」といって3本の松を植えた。これが 西行三本松 である。






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