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(国分寺町)伽藍山万灯寺の西行塚


 

萬燈寺薬師堂の裏側の岩壁に不動明王が彫られていて、その前に西行塚碑が建っている。

なぜここに西行塚を建てたのだろうか?
H29.5.26

下部の花のような、というのか、炎のような、というべきか、この模様は何を意味するのか?
記憶が曖昧なのでまちがっているかもしれないが、キリシタンが 炎の模様 を使っていたのではなかっただろうか?

これは蓮華文様の一種らしい。(1600〜1700年頃に広まった。)
(蓮華文は屋根瓦などによく使われており、蓮の花を上から見た模様だが、横から見た模様もあるらしい。)


石碑は自然石の6面ある石柱になっており、向って左から右回りに、年号、施主、歌、が彫られている。
 
「建久元庚戌大二月十六日化」
「寳歴十二壬午春二月十六日建之」

建久元年(1190) 2月(=大の月)16日は西行法師が大往生した日である。
【正確には西行没は、文治6年(1190) 2月16日 (文治6年4月に建久に改元)】

宝暦12年(1762)2月16日がこの碑を建てた日付である。

更に右へ廻ると、施主と歌
 

  

(高松へ行ったついでに立ち寄ったが、あいにく風が強くて、拓本の紙が吹き飛ばされ、うまく採れなかった。石の表面も風化のせいか孔だらけ)
「玉藻東阿无人」(あるいは「玉藻東阿老人」か?)
「山水の浅き心も西へ行 契を君に結ぶ嬉しさ」

ネット検索すると、歌は上記のように紹介されているが、末尾は「嬉しき」と彫られているようにも見える。

施主は「東阿老人」と彫られているのであれば、「讃岐の黄石公」を自称しているのかもしれない。
(参考: Wikipedia によれば、秦の始皇帝を暗殺しようとして失敗した張良が身を隠していたとき、
張良に兵法書を授けた老人は山東省東阿県の黄石公であった、という故事がある。)
剣持雅澄氏のホームページ を見ると、この人は、「江戸中期の香川郡の俳人とされるが、詳しいことは分からない」とされている。

薬師堂の手前には、次の写真のように、石像が2体設置されている。
手前のは旅装束だが、これは西行法師のつもりだろうか?


旅僧像の左の石碑は、支那事変の戦死者の供養碑のようである。




ここで、上記でネットから剣持雅澄氏のページを引用したが、同氏に次の著作本があるのを見つけた。
—「西行伝説の風景 (西行八百年忌記念出版)」剣持雅澄著、H1.2.14 発行 —

この本には、香川県下だけでなく全国の主な西行史跡が紹介されている。
その中で、「万灯の西行塚」の項には、次の新聞記事が取り上げられている。



この記事中で、西行の没日が「建久元庚戌二月十六日遷化」と刻まれていると書かれているが、
もちろん読み間違いだろう。実際には「大二月十六日遷化」と彫られている。当時は大陰暦であり、
大の月と小の月を組み合わせて1年の期間を調整しており、建久元年の2月は大の月である。
(大の月は1ヶ月=30日、小の月は同29日、大と小が半々あるとすれば1年は354日しかない。そこで3年に一度ぐらい閏月が入る。)

また、「東阿老人」については「讃岐人名辞書」の東阿という俳人が該当していると見ているが、間違いないのだろうか。
この辞書によれば、東阿は麦浪門下の俳人となっているが、西行塚碑には俳句ではなく、和歌が刻まれている。
また辞書には「東阿」しかなく、これが「玉藻東阿老人(あるいは无人?)」で間違いないのだろうか?

「讃岐人名辞書」梶原竹軒編 より




<万灯寺薬師堂へのアクセス>
高松自動車道/高松西インターから県道12号 三木国分寺線沿いを少し西へ行った峠附近にある富士運送の内部奥から万灯寺への連絡道が付いている。
急な坂道を登るとすぐ富士運送の駐車広場、その向うに万灯寺への連絡道が続いている。
でこぼこの激しい未舗装道をしばらく登ると、次のような万灯寺駐車広場に着く。
ここから徒歩で奥へまっすぐ進むと、万灯寺本堂である。



途中の右分岐を登るとすぐ、また分岐があるので、看板に従い右の薬師堂を目指す。


途中の登り道は かなり急坂で、あえぎながら、うつむき加減になって足元ばかり見て登っていると、一歩を踏み出したすぐ先20cmぐらいのところに・・・
H29.5.26

うわっ、思わず飛びのいた。ハミだ。枯れ葉の間にカラシ色の蛇の目マークが並んでいても分からない。
よく噛まれなかったものだ。こんなところでかまれたら西行調査どころではなくなる。命に関わる。
暖かくなると、山へは行けないなぁ。
至近距離に足を下ろしたのに、やっこさんピクリとも動かない。なんとか追っ払わないと前へいけない。手近にあったこぶし大の石をぶつけたが、頭の近くに落ちるものの、当らない。 もうひとつ投げつけたが、至近位置に落ちるけどやっこさんピクリとも動かない。もう手近に石がない。一旦石を探しに下りたが、なかなか石がない。かなり下ってやっとこぶし大の石を4個拾い集め、おっかなびっくり先ほどの場所へ・・・でも、もうどこにもいない。どこへ行ったのか、めくら滅法、その辺に石を投げつけながら、前へ進む。 薬師堂までたどり着いたが、西行塚の刻字は案の定読めない。車の中には拓本の道具を持ってきているが、風が強すぎてうまく採れそうにはない。しかし、ハミを見た今、後日出直す気にはならない。近くに落ちていた長い枯れ枝を拾い、地面をたたきながら下山、駐車場まで行き、拓本の道具を持って、また地面をたたきながら登った。石碑の拓本を採っている間も後から背中に忍び寄ってきて喰らいついてこないか気が気でない。冬にならない限りもう2度とこない。

後になって思い至ったが、石をぶつけて、やっこさんがこちらを追撃してくると、相手は坂道を下ってくるから、猛スピードで接近して来たに違いない。逃げ切れないかもしれない。あ〜オソロシ。もう行けない。









西行庵  正面   全景   内部   江戸時代の記録   歌碑   山家集   生木大明神   滞在期間   讃岐での足跡

善通寺   曼荼羅寺   出釈迦寺   禅定寺   人面石   鷺井神社   東西神社
我拝師山   天霧山   七人同志   片山権左衛門   乳薬師   月照上人   牛穴   蛇石
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