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西行の歌伝説


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「讃岐名所歌集」赤松景福著兼発行、昭和3年3月24日 上田書店発売 (S58.8.10復刻版、丸山学芸図書)には



三木町池戸にもこの地を詠った西行の歌があり、


寒川郡昼寝城にも西行が詠んだ歌がある。


さすがにここまで行くとこじつけだらけのようだ。

曼荼羅寺・出釈迦寺付近の歌で「山家集」に載っているものは、西行自記のため本当であろう。
上掲には、「廻りあわん」は「あはむ」の誤り、と書いているが、「山家集」の古文書にも「めぐりあはん」と書いてある。これを現代仮名遣いで「廻りあわん」と書いているのだろうから間違いではない。


上記の「讃岐名所歌集」には、ほかにも西行作と称する歌や西行にちなむ史跡がいくつも紹介されているが、県内にあきれるほど沢山ある。拾い出すと以下のようである。
(・・・以下は赤松景福氏のコメント)  (「山家集」に載っているものは西行の歌に間違いないので、省略)

屋島
 宿りしてこゝに假寝の畳石月は今宵の主なりけり・・・山家集になし、平忠度「花や今宵のあるじならまし」より脱胎せりと見ゆ。
・有明濱(観音寺)
 山の端に月は入にし有明の濱の眞砂に影ぞ残れる・・・山家集になし
・白鳥の松林
 はし鷹のしゝも 引田の浦 なれやをきゑにかゝる白鳥の松・・・作者は、讃岐名所記に西行とあり、名勝圖會に讀人不知とあり。
・飯山
 さぬきにはこれをやふじといひの山朝けの煙たゝぬ日ぞなき・・・巡検使鈴木氏歌に同様の歌あり、山家集になし。
・本山寺(三豊市)
 世と共に西へ流るゝ本山の川の瀬ぎりの帰らざらなん・・・山家集になし
・六妻山(高松市中間町)・・・ 六ツ目山 (六妻山とも)の麓に伏猪という小地名あり。
 かるもかくひとり伏猪もあるものを六爪の鹿は何と鳴らむ・・・西行法師の歌とも、民部卿爲家の歌とも
・富坂松(三木町池戸)
 金崎やよし岡こへて小野が原行けば富坂まつきみもあり・・・藻鹽草、此歌は西行にあらじ。(上掲済み)
・道隆寺(多度津町)
 明らかに教えの道も隆ければ弘めし法の惠をぞ思ふ・・・此歌西行といふは確ならず。
・昼寝城(寒川町前山)
 櫻咲長き春日にあくがれて晝寝の花の夢に見えつゝ・・・此歌西行集になし、後人の假託なるべし。(上掲済み)
曼荼羅寺 (善通寺市吉原町)
 帰り行く人の心を思ふにもはなれがたきは都なりけり・・・西行の歌なり、但し四國とあるだけで、讃岐曼荼羅寺とは無し。
 笠はあり其身はいかに成ぬらむあはれはかなき天が下哉・・・西行の歌と見えず。→「 西行物語 」には有り。
・土居清水(丸亀城南)
 皇きに手向の清水年を歴て底の玉藻は光り見へけり・・・此歌は西行の作にあらじ。
・善通寺 久の松
 谷の戸に獨ぞ松もたてりける我のみ友は無きかと思へば・・・山家集に無けれど、此庵の松(所謂西行庵久之松)の歌とす。(⇒これは赤松氏の偏見であろう。)
・蓮華寺松(西行松)高松濱ノ丁
   ・・・松は西行が来て植ゑたりとて、西行松といふ
・寒川清水
 道のべの清水流るゝ柳陰しばしとてこそ立留けれ・・・西行道のべ歌は此地に非ず。西行の歌は新古今夏に題しらずとあり、清水は何處にもいふべし
 寒川のやなぎに流れ行水の反らぬものは命なりけり・・・此歌は西行集になし、後人の假託なるべし。
・三重の瀧(寒川郡石田西村)
 身につもることの葉の罪あらはれて心澄ぬる三重の瀧・・・此歌は紀伊那智なり、讃岐に引くべからず。
水莖の岡  西行庵
 山里にうき世いとはん友もがな悔しく過し昔かたらん  西行無名抄
・山田(綾歌郡)
 つたひ来るうて樋をたへずまかすれば山田は水も思はざりけり・・・山家集に題しらずとあり(西行の歌なり) ⇒山田は地名ではなく一般名詞であろう。
・鹽飽
 鹽飽より眞島に通ふ商人はつみをかひにぞ渡るなりけり・・・山家集、まなべよりしはくへ通ふ商人は
・白峰
 磨かれし玉の臺を露深き野邊に移して見るぞかなしき・・・此歌は近衛天皇陵に西行が参りて詠める者なり、白峰陵に引くは縣史の誤
 よしさらば道をば埋め積る雪さなくば人の通ふべきかは・・・此歌は山家集になし
・瀧宮 瀧川 綾川
 おのづから岩にせかれて諸人に物思はする瀧川の水・・是も 瀧宮 に確ならず、果して西行が此處に詠じたりしか、語の上より見れば此處の地名に非ず
 波と見る花の下枝の岩枕瀧の宮にや音よどむらん・・・夫木集西行法師歌也とあり、されど是所は伊勢なり
・屏風浦(多度郡)
 屏風には心を立て思ふらん行者は帰り兒はとまらず・・・此地は武蔵なり、山家集にあり
・長洲松(豊田郡、一名西行松)
 あわれなりおなじ野山に立る木のかゝるしるしの契ありけり・・・此歌は善通寺印の松の歌なり
・長洲松(西行見返りの松)
 命あらば又帰り見ん打はへし長洲の松よ吾を忘るな・・・此松は伊豫の方なり、山家になし、西行の歌ともすべし
 よき長洲都の人を松が枝や千代の緑を打はへてけり・・・此松は伊豫の方なり、山家になし、西行の歌に似ず、後人の假託なるべし
 忘れてはふじかとぞ思ふこれやこの伊豫の高根の峯の白雪・・・山家集に無けれども西行なるべし、此地は宇摩郡二名村大字長洲、村役場付近なり
・善通寺
 廻り逢はん言の契ぞ頼もしき厳しき山の誓見るにも・・・此歌は善通寺に非ず、 出釈迦寺 の歌なり
・津田
 旅人の津田の入江に水ませば舟をぞよばふ五月雨の頃(夫木集)・・・是は播磨飾磨郡津田なり、讃岐にあらず
・勝間田の池(三野郡)
 水なしと聞てふりにし勝間田を池とあらたむさみだれの頃(山家集)・・・是は大和なり
・瀬見島(せゐ島ともいふ、瀬居島)
 霞敷波の初花おりかけて櫻鯛つる沖のあま人・・・鹽崎の浦の歌と竝べ記せば同處に詠めるなるべし、櫻鯛は讃岐ばかりの事に非ず


同書の中に西行の名があちこちに点在しているので、抜けがあればご容赦。


高松市鬼無町の 衣掛池 の名は、むかし西行法師がこの池で路傍の松に衣をかけて休んだところから名付けられたと「讃州府誌」などに見えるが、池が築造されたのは「衣掛池之碑」によると、西嶋八兵衛が寛永3年から13年(1627〜37)にかけて築造竣工した池のひとつにあたると記されており、西行とは時代が合わない。


剣持文庫? を「西行」で検索すると 『西行伝説の風景』剣持雅澄 など他にもたくさん西行の史跡が紹介されている。例えば、
・積善坊(東かがわ市引田町)
 香川県東かがわ市引田町引田積善坊には、次のような歌碑が建てられていて、
 西行は鳴門から讃岐に入り、崇徳院の白峰、弘法大師の善通寺に参詣したと信じられている。
  あら鷹のしたも引田の浦なれば沖へにかかる白鳥の松 西行
   「讃州大内郡吉田里東面山記」応永8年(1401)の記録にある。
・万灯の西行塚
 お椀を伏せたような 伽藍山 の中腹にある万灯寺の狭い境内に「 西行塚 」がある。
 背面に「山水の浅き心も西へ行 契を君に結ぶ嬉しさ」という東亜老人の歌が刻まれている。
 江戸中期の香川郡の俳人とされるが、詳しいことは分からない。
 この信仰の山伽藍山からは、崇徳上皇の眠る白峰が望まれる。近くには国分寺中学校がある。


上記にある「讃州大内郡吉田里東面山記」(「香川叢書 第一」収載)から抜粋すると、次のように書かれている。
又西行法師も鳴門の方より此寺に來り、一夏の間安居して、朝な夕な花つみ水結ひて本尊につかへたまひ、すゝろに禪悦爲食の心讀るとて、
 あら鷹のしたも引田の浦なれはおきへにかゝる白鳥のまつ
又六道能化の心をよめるとて、
 月は入 日はまた出ぬ中空の暗をてらすは曉毎のちかひなりけり
(繪)
あり

ここで、上記「あら鷹の・・・」の歌と、前述の「讃岐名所歌集」の「白鳥の松林」の項に出てくる歌;
 はし鷹のしゝも引田の浦なれやをきゑにかゝる白鳥の松
とを比較すると、非常によく似ており、どうやら元は同じだったのではなかろうか。



西行庵  正面  全景   説明板   内部   江戸時代の記録   歌碑   山家集   生木大明神   滞在期間

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