このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

西行の歌伝説


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衣掛池

高松市鬼無町の衣掛池の名は、むかし西行法師がこの池で路傍の松に衣をかけて休んだところから名付けられたと「讃州府誌」などに見えるが、池が築造されたのは「衣掛池之碑」によると、西嶋八兵衛が寛永3年から13年(1626〜36)にかけて築造竣工した池のひとつにあたると記されており、西行とは時代が合わない。


衣掛池から六ツ目山(左)と伽藍山(右)を望む。


衣掛池之碑(左端)


<衣掛池の碑文>
衣掛池之碑
衣掛池碑
  明善高等女學校長従七位山川波次題額
上笠居之地西負勝賀峰東仰弦打山南連香川平原北隅内海遙對微山之
青黛雖有本津川之流澤概無不頼池水之涵養也大小七十有餘陂池眞可
謂濟民賑村根源矣就中最大者為衣掛池往昔僧西行過此地懸緇衣路傍
松而憇由以有名焉生駒氏為讃岐領主第四世高俊用力水利墾田聘外祖
藤堂高虎家臣西島八兵衛使築造神内池外九十有餘池實寛永五年乃至
十三年竣工此池亦其一也西界綾歌郡端岡村南接本郡檀紙村水面總積
拾五町四段七畝九歩灌漑地域七拾四町七畝歩當全村田段別三分一強
焉圓座村宮下出水為水源經檀紙村架樋臺本津河上引源水以濺池焉明
治廿九年德田亮太德田宗藏横倉與吉泉吉太郎高橋忠次池野鶴藏泉保
岩吉河野常吉等相議購田一町八段一畝拾七歩以充永久水利之費然從
來毎有出水樋臺被害多常以縣費支之大正元年大水之際破壊甚諸氏
協同一致或訴官或督工使工事速竣成永得保池安全以開村民愁眉此擧
横倉氏特挺身當事村民為之得本村今日水利之和平實依諸氏之力也今
茲關係者相謀建碑勒其由來後人冝思水利經營之次第協心戮力圖池之
安固以講子孫萬全之策
大正九年二月吉日
       上笠居尋常高等小學校長川崎甲太郎誌
(誤植があればご容赦、字は下記の「農林業の石碑」の方が誤植と思われる。)

下の看板では西嶋八兵衛が寛永三年〜十三年にかけて築造したとなっているが、上の碑文では西島八兵衛が寛永五年〜十三年にかけて神内池ほか90有余の池を築造し、この池もその1つとしている。

上の碑文によれば、西行が此の地を過ぎし折、路傍の松に黒衣を懸けて休んだのが名前の由来になっているようだが、上述の通りならこの池は寛永年間に出来た。西行が来た当時そこに水溜でもあったのか?さもなければ、衣掛松と呼ぶべきではないのか?


現代版の衣掛池の案内板



碑文の説明がありました。・・「農林業の石碑 — 先人の遺業をしのぶ—」(香川県農林部編集・発行、S56.1.31)より・・


「郷土史事典 笠居郷探訪 第2版」(立山信浩著、2014.7.8発行)にも解説がある。「西行がここに来た確証はない」とある。





西行庵  正面  全景   説明板   内部   江戸時代の記録   歌碑   山家集   生木大明神   滞在期間

善通寺   曼荼羅寺   禅定寺   西行庵   人面石   鷺井神社   東西神社
我拝師山   香色山   天霧山   七人同志   片山権左衛門   乳薬師   月照上人   牛穴   蛇石

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