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「水茎の岡の西行庵」


 
「讃岐名所歌集」(S3.3.24 赤松景福 著作兼発行、S58.8.10 復刻版発行)によると、
西行庵の歌碑にある歌は吉原のことを詠んだものではない、として徹底的に地元の解釈がマチガイであることを指摘している。

水茎の岡の下まで海であって港があったとか筆の山の下まで海で筆の海と言われたなどは、よその場所を詠んだこれら「水茎の岡」の歌を、吉原を詠んだものと誤解したことから始まっており、吉原が昔海であったなどはあり得ない、地元の人たちの曲解である、としている。

(江戸時代に書かれた 出釈迦寺の絵 には西の方に海が描かれているが、これは虚構なのか、それともかつて詫間方面も海だったという言い伝えがあってそれを描いているのだろうか?)









上掲の抜粋文章以外でも地元の解釈が誤りであることが延々と述べられている。この著者は高松在住となっている。たしかに防人の歌などは九州で詠まれたものが多いのかも知れないが、万葉の時代に吉原で詠んだことはあり得ないという確証はあるのだろうか。その後弘法大師(空海)や智証大師(円珍)を輩出することになる土地柄であれば、大昔からこの辺りはかなり文化が進んでいた地域であったはずである。

赤松景福(以降、「赤福翁」と略す)は、この著書の中で、吉原に限らずまぁ驚くほど当たるを幸いバッサバッサと切り捨てている。難癖をつけるのが趣味のようである。赤福翁は和歌には詳しいのだろうが、その歌が詠まれた背景事情や土地事情には必ずしも詳しくないようである。それどころか自説を通したいがために根拠もないことを平気で書きまくっている。話半分に読むべきである。

ところでネット検索してみると、赤福翁が「讃岐名所歌集」の中で、「西行は吉原に庵を結んだことを否定している」と 素直に解釈している人 までいる。
しかし、これは事実誤認であろう。赤福翁がここで主張していることを整理すると次のようになる。

 1.一連の水茎の歌について、「水茎の」は岡の枕詞である。岡の湊は筑前にあり、讃岐の地名ではない。
 2.万葉の歌を引用し、吉原地方一帯は昔入江であった、と説いているが、全くの誤りである。後世に文筆のことを「筆の海」と詠み合わせただけであり、実際に海があるわけではない。
 3.「水茎の岡の湊の波よりや・・・」の歌は西行の歌ではなく、為家の歌である。
 4.西行の時代に水茎の岡という地名は全国どこにもない。西行より後に、歌に付随して地名のように言いなしただけである。但し今は慣例上水茎の岡は地名として見て可。
 5.「天霧相」は動詞であって、天霧山のことではない。
 6.山家集に「大師のおはしましける御あたりの山に庵結びて」海面を見渡す歌を詠んでおり、善通寺付近の庵とは別のように見えるが、善通寺の庵である。(いかに行脚僧とはいえ、同時に処々に庵を結ぶことはない)

以上、よく読めば、西行の時代に「水茎の岡」に寓居したとか、筆の海があったとか、天霧相を天霧山としていることが、けしからん、と書いているが、西行が曼荼羅寺の西5〜6丁に寓居したことを否定する根拠は「行脚僧とはいえ、同時にあちこち庵を結べないだろう。」という理由だけである。なんと薄っぺらい根拠であることか。
後の書物に、西行が「水茎の岡」に仮寓したと書かれていることが、赤福翁のお気に召さないらしい。しかし、この地を「水茎の岡」と呼ぶようになって以降に書かれた書物に「西行は水茎の岡に仮寓した」と書いてもなんらマチガイではなかろうと思うが、赤福翁はそれが気に入らないらしい。そんなことを言い出したら、我拝師山が善通寺にあるといったらマチガイである。西行の時代には多度郡善通寺村と多度郡吉原村とは対等な全く別の村であった。今でこそ善通寺市吉原町であるが、しかし今も我拝師山は善通寺にあるといったらマチガイとしなければならない。

さて、上に列記した赤福翁指摘の事項について1つ1つ見ていこう。

 1.「水茎」が吉原の地名でないとする証拠はなんであろうか? 「岡の湊」が筑前にあろうがどこにあろうが(日本書紀では神武東征の項に 筑紫国崗水門 =おかのみなと)、西行は吉原で「岡の湊」の歌など詠んだとは吉原の人は言っていない。三井之江は今も山からの湧水があちこちに湧いており、その上の岡も「茎がみずみずしい」という意味で「みずくき」と呼んだと言われている。日本語は音が先であり、漢字(=中国語)は後からあてはめて水茎となる。

 2.「万葉の歌を引用して吉原は昔入江であったと主張している」というご意見だが、果たしてそうか? 吉原はつい最近まであちこちに 葭が群生 しており、湿地帯であったのかと思わせる土地柄であった。当然昭和初期の赤福翁の時代にも吉原のあちこちに葭が生えていたはずである。青龍古墳の北側には今も(片葉の)葦が生えている。筆の山の麓まで藻場であったという説もある。崇徳上皇が保元元年(1156)に讃岐へ流されたときに到着したのは綾郡松山の津であるが、この港は雄山と雌山の間とされていて、今は内陸である。崇徳院が雲井御所にいた3年間(1156〜)の間によく海岸へ遊びに行っていたとのことだが、当時は海岸線が今より内陸側で砂州だらけであった。崇徳院が遊んだ当時の海岸線に「 御遊所池 」の碑が建っている林田町浜西付近は今や内陸である。三野郡の港であった三野津という地名の中心は今はかなり内陸である。「縄文海進」の時代は三野津湾は大きく内陸へ湾入していたそうだが、「三野津」と呼ばれたのは縄文時代ではなかろう。「香川県埋蔵文化財センター 研究紀要 8」(2012.3.26発行)の「南海流浪記」の項には、道範阿闍梨が讃岐に流されて宇多津に居た当時(仁治4年=1243年)は「青ノ山北麓まで入江が深く入り込んでいた。」とある。現在の宇多津は海岸線をかなり埋め立てているとしても、宇多津でも海がかなり内陸まで入り込んでいたことになる。筆の海などありはしないという根拠はなにか。吉原よりも海寄りに古墳( 盛土山古墳 、直径43m、高さ5.2m)があるが、古墳時代には陸地でも、源平時代にはどうであったか。源平の頃は地球の気温が高かったとするデータもある。海面が今より高かった可能性がある。それに加えて雨による浸食活動で土砂が長年月かけて海岸線に堆積していったか、南海トラフの潜り込みにより土地が隆起しているか、などで、現在の海岸線は当時より海側に後退していったのではなかろうか。

 3.西行庵の前にある歌碑には「水茎の岡の湊の波よりや・・・為家卿」と刻まれている。だれが西行の歌だと主張しているのか?昭和初期以後に建立された歌碑とは見えないが・・・。赤福翁の時代からこの歌碑はあった筈。赤福翁はどこをみていたのか。(まさか現地を調査もせずに勝手な憶測を述べているのではあるまいか)

 4.「西行の時代に水茎の岡という地名は全国どこにもない」とどうして断言できるのか。吉原の「水茎」は字(あざ)である。全国の地名が分かるのは「和名類聚抄」ぐらいではないかと思われるが、これには多度郡吉原(與之波良、与之波良)は記載されているが、字や小字は一つも書かれていない。例えば吉原には「花籠」「御館坊」「一心坊」などの地名があるが、赤福翁はこれはご存じなのか?もしご存じなら「水茎」という地名があることもご存知でなければならない。ただしこの地名がいつ頃から呼ばれていたのかは分からない。赤福翁の指摘のように西行時代にはなかったかも知れないしあったかも知れない。しかしあったかなかったか赤福翁はどうやって証明できたのか? 赤福翁の知らないことは存在しないのだ、というのはトンデモナイ思い上がりである。

 5.「天霧相(あまぎらい)」は「天霧山」のことではない。私もそう思う。この読み人知らずの歌が確かに西行庵前の歌碑に刻まれている。だが、昭和初期に赤福翁が調査した(?)ときにはどうだったのか私には知るよしもないが、今見る限り「天霧相」は天霧山を詠んだ歌だとはどこにも書いてない。むしろ、上述の為家卿の歌と同様、よくこれだけ吉原周辺の地名にひっかけた歌を捜してきたなぁ、という感慨が深い。地元への愛着を感じてほほえましい。(繰り返すが、これらが吉原の歌だとか西行の歌だとか誰かいっているのか?)

 6.ここに至ってはもう赤福翁の偏見で言いたい放題である。「善通寺付近の庵とは別のように見えるが、善通寺の庵である。」と言っている。そんなことを言い出したら何でもありだろう。自分の考えと違っているのは、どう理屈があろうが、それは違うといっている。「撰集抄」は仮託の書(別人が西行になったつもりで書いた書)であるから、それに「善通寺の方丈で書き終わりぬ」と書かれているからといって真偽の程は定かでない。しかしあれだけ否定する赤福翁が「善通寺方丈」は否定しないのはなぜか。否定すると玉泉院の西行庵説が消えるからか? 道範阿闍梨の「南海流浪記」には、「善通寺の南大門の東脇に古大松あり」その前で西行が「久に経てわが後の世をとへよ松・・・」の歌を詠んだと書かれているが、それなら久の松は南大門の東になければならない。玉泉院は南大門の南西数百mにある。なぜ久の松がこんな所へ移動したのか、赤福翁はこのことをなぜ指摘しないのか。吉原の西行庵の前にも大きな松があったという伝承(「善通寺市史 第一巻」S52発行)があるが、なぜそれは無視して、玉泉院の松だけ肯定するのか。魂胆があるのかそれとも悪意か、まったく常軌を逸している。赤福翁はまったく 自分勝手な ことしか書かない人である。

次の解説 はどうであろうか。「曇りなき山にて海の月見れば島ぞ氷の絶え間なりける」
これは「山家集」で大師のおわします辺りに庵を結んで最初に書かれている歌であるが、赤福翁は次のように、

「善通寺付近の西行庵からはかかる海面見渡しの実景はない。これは西行が庵より見たのではない。その庵に住んでいた頃、月夜に 白方の海辺 へ行って見たものとすべし」とおっしゃっている。呆れてものも言えない。歌には「山にて海の月見れば・・・」と詠んでいる。なんで「海辺へ行って見たものだ」などと平気で言えるのか。よっぽど赤福翁は自分が言えば何でも正しいとでも思っているのか。舞い上がりもいい加減にしてもらいたい。



次はどうだろうか。「屏風浦は今の善通寺の地にて、古はこの辺迄も潮汐来るよし」 筆の海などあろう筈がない、とコテンパンにこき下ろした人が、「後世善通寺を屏風浦といえど、地勢浦辺にあらぬをいかにせん」程度でとどめている。なんと寛容なことか。善通寺は吉原よりももっと内陸である。えこひいきもいい加減にしろ。



四国新聞に 変な記事 が出たお陰で、「山家集」や「南海流浪記」を丹念に読む気になったが、読めば読むほど、庵は山にあり、松は庵の前にあり、平地である南大門の東に久の松があるという善通寺の寺僧は西行の名声を取り込もうとした可能性が高く、まして南大門の南西に久の松や庵があったというのは単なる願望であろう、という気がしてくる。
『南海流浪記』の 史料紹介 (「香川県埋蔵文化財センター 研究紀要 8」, 2012.3.26発行)によれば、
「大師のおはしましける御辺りの山」(『山家集』)に結んだという西行の 庵がどこにあったかは不明である。しかし、西行の讃岐巡礼から約八〇年 後、善通寺において、南大門の東脇にはまさに古い大松が存在し、西行が 「七日七夜籠居した」庵ゆかりの「西行が松」であるとの伝説が語られて いたというのは、興味深い。このような西行伝説は、西行の名声ゆえに、 鎌倉時代以来全国に流布したのである。
とあり、善通寺も西行の名声にあやかろうと、寺僧が作り話をしたのではなかろうか。

と、私ですらこれだけ反論を書けるぐらい、赤福翁は根拠不明なことをたくさん書いているということである。この本を書いたであろう昭和3年頃にはどこに何があったか、の参考にはなるが、あとはまったく信用ならない。

もっとも、 善通寺市教育委員会でも吉原が昔海だったという説には、「縄文海進」の時代まで遡ってもあり得ないとして、否定的であるようだが・・・。
しかし一方では、かつて気温が少し高った時期があることを幾通りものシミュレーション計算値が示している。温度が1℃も高ければ相当な海面上昇があったはずである。

事実、源平合戦の頃(西暦1180年ごろ)には、源平水島合戦の舞台である岡山の水島も乙島も玉島も児島も文字通り島であったし、源平藤戸の戦いの場となった藤戸寺あたり(現:倉敷市、粒江パーキングエリアから北東方向)は海峡であり、源氏方の佐々木盛綱が馬で海峡を渡ってまさかの攻撃をしたことで平氏方は敗れている。

源平水島合戦の頃の地形


源平合戦藤戸の戦いの図


下に現在の倉敷市周辺の地図を示す。児島のように干拓したのを除外しても、今やどちらも内陸部である。
玉島、乙島、柏島、連島など、今は陸続きである。藤戸合戦の頃は児島湾から倉敷川に沿って現在の山陽ハイツ辺りまで大きく湾入していたようである。



源平合戦のあった1100〜1200年頃の讃岐の海岸線の想像図を次に示す。筆の海がどのくらい湾入していたのかはわからないが、 二反地川 や弘田川に沿って湾入していたのではなかろうか。










西行庵  正面   江戸時代の記録   歌碑   山家集

善通寺   曼荼羅寺   出釈迦寺   禅定寺   人面石   鷺井神社   東西神社
我拝師山   天霧山   七人同志   片山権左衛門   乳薬師   月照上人   牛穴   蛇石
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