このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「盛土山古墳」


 
盛土山古墳は多度津町奥白方と山階との境界線辺りの田んぼの中にある。ちょうど筆の山から海岸寺へ抜ける一直線上にある。


盛土山古墳 (後方は天霧山の東北端)

(右手の天霧山の麓には向井原古墳もあるが標高10m以上ありそうなので検討対象外)


看板には「円墳、一部段状に開墾されている」と書かれている。

記憶が定かではないが、30年以上前にはこの小山の上はブドウ畑になっていたような気がかすかにする。それなら頂上部を平らにするのはわかるが、2段にする意味はあったのだろうか。

多度津町の古墳をネット検索すると、盛土山古墳は「直径43m、高さ5.2m」と書かれている。
一部水平に段状になっているが、これはひょっとしてこの段の高さが干潮時の海面の高さだった時代があるのではなかろうか。それより上は海水の干満によって浸食され削られた、ということはないのだろうか。
もしここまで海面上昇があったのなら、この辺りは次図に示す通り海抜5.6mであるから、段までの高さが3〜4mとして、1200年頃には海面(干潮時)が8〜10mぐらいの高さまであったのではないか。
もしそうなら、満潮や高潮などのときは天霧山の東側、東碑殿付近の二反地川あたりまで海になっていたことだろう。





地元の冊子「よしはら」(H2.4.26, 吉原郷土研究会発行)には、「弘階池の西に塩留という小字名があります。」と書かれており、今この小字は確認できなかったが、もしこれが事実なら、筆の山の麓まで潮が来た可能性がある。昨今の防災活動では地名が重要な意味を持っていることが知られているが、「塩留」という地名があったとすれば、真剣に捉えねばならないだろう。これが平時の満潮時の終端という意味か、それとも過去の津波のときにここまで潮が来たという意味かは不明であるが、いずれにせよ、このあたりまでの標高は余り高くなかったということであろう。
上の図から、吉原小学校の北端で15.2m、同小学校の南端では17.1mとなっており、小学校辺りから上り坂となり始めている。ということは筆の山や我拝師山から浸食された土砂はこの辺りから堆積が始まっていることになる。源平合戦の頃から現在まで800年以上経過しており、かなり土砂が積もったことであろう。もし源平の頃、吉原小学校付近の標高が10m未満なら、本村辺りは海辺であった可能性が高い。

この推論は「盛土山古墳が段状になっている理由は海蝕によるものではないか」という素人考えに頼っているので、もしこの仮定が崩れたとしたら、どこまで海面が来たかという推定は崩れる。しかし、「古墳があるから、古墳時代から現代に至るまで海面上昇はなかった」ということを証明することにはならないことを申し添えておきたい。

ところで、段状になっている水平部や頂上には次のように角の取れた丸い小石(砂利)がたくさんある。これはどういうことを意味しているのだろうか。


小石が丸いということは川または海による浸食作用を受けた結果である。古墳を作るときに、近くの二反地川や弘田川の川底の土を取ってきて盛り上げたものが、雨により小石だけ洗い出されたのか。
しかし二反地川は吉原大池に端を発し、流路5kmぐらいしかない。また弘田川は有岡大池に端を発し、流路8km程度である。石は山から流れてきたかも知れないが周囲の山は400m前後の低い山であり、小石が丸くなるだろうか。
それとも過去に100年間ぐらい海面下になったときに潮汐で削られて丸くなったのか。



西行庵  正面   内部   江戸時代の記録   歌碑   山家集   生木大明神   滞在期間

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我拝師山   天霧山   七人同志   片山権左衛門   乳薬師   月照上人   牛穴   蛇石
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