盛土山古墳は多度津町奥白方と山階との境界線辺りの田んぼの中にある。ちょうど筆の山から海岸寺へ抜ける一直線上にある。
盛土山古墳 (後方は天霧山の東北端)
(右手の天霧山の麓には向井原古墳もあるが標高10m以上ありそうなので検討対象外)
看板には「円墳、一部段状に開墾されている」と書かれている。
記憶が定かではないが、30年以上前にはこの小山の上はブドウ畑になっていたような気がかすかにする。それなら頂上部を平らにするのはわかるが、2段にする意味はあったのだろうか。
多度津町の古墳をネット検索すると、盛土山古墳は「直径43m、高さ5.2m」と書かれている。
一部水平に段状になっているが、これはひょっとしてこの段の高さが干潮時の海面の高さだった時代があるのではなかろうか。それより上は海水の干満によって浸食され削られた、ということはないのだろうか。
もしここまで海面上昇があったのなら、この辺りは次図に示す通り海抜5.6mであるから、段までの高さが3〜4mとして、1200年頃には海面(干潮時)が8〜10mぐらいの高さまであったのではないか。
もしそうなら、満潮や高潮などのときは天霧山の東側、東碑殿付近の二反地川あたりまで海になっていたことだろう。