このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

明保野亭事件

池田屋騒動 においては、新選組側からも死傷者が出て、新選組の人員は不足していました。

そのため、新選組は 京都守護職 に援軍を要請し、池田屋騒動の4日後の6月9日、
21名の会津藩士が加勢として新選組に合流します。

この頃の新選組は、浪士の残党狩りを京都守護職から命じられており、日々の市中警護を
強化させていました。

池田屋騒動から5日後の6月10日夜、 清水寺 参道にある明保野という料亭で浪士数人が
密会をしているという情報が町奉行より新選組にもたらされます。

新選組は、原田左之助率いる一隊、10名を出動させる一方、京都守護職の会津藩も
池田屋の二の舞になるのではと、隊士・柴司(しばつかさ)、吉原四郎、石塚勇吉ら7名を
料亭に向かわせました。

そして、新選組と会津藩士らは明保野亭へ踏み込みます。

部屋では、土佐藩士・麻田時太郎がたったひとりで酒を飲んでいましたが、新選組や会津藩士ら
の急な乱入に麻田は驚き、庭へ飛び出しました。

これを会津藩士の柴が追いかけ、麻田の腰あたりを背後から槍で一突きしました。

すると麻田は、「自分は土佐藩士であるから、これ以上、けっして突かないでくれ。
自分も突きはしない。」と言って、そのまま土佐藩邸へ帰って行きました。

この当時の土佐藩は、公武合体派に属していたため、会津藩とは友好関係にありました。

しかし、この事件によって両藩の関係が断絶されかねない事態に発展するのです。

柴は、新選組の屯所へ戻ってからも、どうにも心配な様子で、永倉新八に向かって、
「どうしたものであろう」と言います。

永倉は、「けっして心配なく。 国家のために人を殺すことには少しも不都合なことはなく、
それに土佐藩士なら逃げなくてもよいのに、あの者が逃げたのが誤りであったのだから、
けっしてご心配ないように」と励ましました。

それでもやはり心配しているように見えたので、永倉は近藤に、「柴司がどうも心配していて、
私も一応、申し聞かせたのだが、なかなか聞き入れることがない」と相談しました。

しかし、そのとき柴司の兄・秀治より柴司に早々に帰るようにと申し伝えがあり、早速に
柴司は、秀治の家に向かいました。

心配した近藤、土方、永倉は、ただちに後を追いかけ、会津藩の公用方に向かいました。

会津藩側は、土佐藩へ医師を伴い見舞いに出向きましたが、土佐藩側は、「土佐藩では士道に
背いた者は治療はしない。 せっかくのお心遣いはありがたく思うものの、治療については
お断り申す」と会津藩公用方を門前払いしました。

公用方が家老に報告すると、家老は、「これまで肥後守(松平容保)と土佐公とは非常に懇意で
あったが、ついに断交するようになるかもしれない」と言い、また、激昂した土佐藩の浪人100名
が新選組へ襲撃する噂もあり、会津藩家老や公用方は心配して、柴司に切腹を申し付ける
わけにもいかず、どうしたものかと頭を悩ませていました。

ところが、このことが、柴司の兄・秀治の耳に入ります。
秀治はただちに家に戻って、司に向かって家老や公用方が心配していることを申し聞かせ、
司に切腹してくれと言いました。

司は責任を感じ、「私ひとりのことで土佐公と断交となってしまっては、誠に恐縮の次第であり、
私は切腹します」と答えました。

司は、早速風呂に入り、秀治が髪を結って衣服を改めてやり、秀治の介錯で司は速やかに
切腹しました。

それで、念のため見届けていただきたいと土佐藩に申し入れると、土佐藩も見届けたいと
願い出ました。

これによって、土佐公の断交しようとの思いが解け、また、明保野亭で負傷した麻田も、
後ろから負傷したことは士道にあるまじきことと切腹したため、会津藩と土佐藩は、
これまでどおり懇意にすることとなりました。

明保野亭事件で柴司が用いた鎖帷子と槍は、永倉が所持していたもので、柴司切腹後、
兄の秀治が、それらの品を貰いたいと言いました。

永倉は秀治にそれらを贈り、秀治は、「天下のために、これを身につけて討死する」と言った
そうです。

柴司の葬儀には、新選組隊士たちも参列しました。
そのとき土方は、柴司の遺体に触れ、涙を流したといわれています。

この後、土方は生涯士道を貫きますが、この柴司の最期に、「士道とはどういうものか」と
いうことを強く学んだのではないでしょうか。

新選組の浪士狩りは、この後も継続されます。

明保野亭跡(あけぼのていあと)

京都市東山区清水三丁目

明保野亭跡
青龍苑
青龍苑

「明保野亭」は「曙亭」ともいい、 産寧坂 にこの石碑はあります。

しかし、当時の明保野亭は、この石碑のやや東北あたりに位置していたそうです。

明保野亭は、長州藩士がよく集まっていた料亭で、坂本龍馬が常宿し、倒幕の密議を志士たちと
談合していたことでも有名です。

当時は建物の二階より、京都の町並みが一望できたため、追っ手の行動がよくわかり、
しかも、産寧坂の石段と調和した風情は龍馬や志士たちが維新のロマンを語るに相応しいところで
ありました。

明保野亭は、司馬遼太郎の著書・「龍馬が行く」でも、しばしば登場します。

幕末当時の明保野亭は、現在では京都阪口という料亭あたりだったとされています。

京都阪口さんは、近年敷地の一部を改装され、京都を代表する名品店が軒を並べる
「青龍苑」として営業されています。

青龍苑に見る明保野亭跡

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