このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
豊臣秀吉が、織田信長の葬儀をおこなったことでも名高く、
以来諸大名が競って塔頭を建立した。
境内拝観自由だが、普段は非公開。
毎年春と秋の非公開文化財特別公開時に本坊が公開される。
(その他の期間は、往復はがきでの予約が必要)
22ある塔頭の内、4つのみが公開されている。
また、牛若丸伝説が残る
梶井門
もある。
法堂(はっとう)
山門は金毛閣(きんもうかく)といわれ、千利休がその上層を増築し、
自身の木像を安置したことが秀吉の逆鱗にふれ、
切腹を命じられる理由のひとつになったことは有名である。
(時の権力者である秀吉も、大徳寺参拝の際は山門の
下を通らねばならず、つまり千利休の下を通るということに
問題があったらしい)
山門 金毛閣
この山門 金毛閣の上層部に安置された千利休の木像は、
秀吉の命令で即刻運び出され、
戻橋
に磔になった。
現在、この山門 金毛閣にはその木像のレプリカが安置されている。
なんとオリジナルの木像も現存しており、裏千家で保存されている。
臨済宗大徳寺派の大本山で龍宝山と号する。
鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。
室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。
桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、
信長の菩提をとむらうために
総見院
を建立併せて寺領を寄進、
それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
勅使門から三門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、
その他いわゆる七堂伽藍が完備する。
千利休によって増築された三門二階部分を金毛閣と称し、
利休の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休自決の原因となった。
本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。
方丈の正面に
聚楽第
の遺構と伝える唐門(国宝)がある。
什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、
絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第2日曜日公開)
建立:1315(正和4)年
唐門
村上周防守義明が豊臣秀吉の聚楽第にあったものを拝領したと伝えられてきたが、
2000年から始まった400年ぶりの解体修理の際、”聚楽第遺構”と書かれた木札が
発見され、その信憑性は高まった。
2003年春、解体修理が終了し、建立当時の色彩が蘇った。
この門が有名なのは建築としてよりも、それを飾っている彫刻の豪華さ、豊富さにあり、
彫刻を見せるために建築を利用したようなものである。
この門に用いられている彫刻や金具などは、多くの動植物(鯉・鶴・孔雀・麒麟・鳳凰・
虎・獅子・椿・桃・松・竹・葡萄等)や自然物(雲・波・太陽)から取材されている。
金具には菊・桐・桐唐草などや一般の唐草などが盛んに用いられている。
このような彫刻に出てくるものは当時の障屏画などにも見られるもので、絵画の立体的
表現がこの彫刻だともいえる。
この門には”日暮門”という別名がある。
この門がまだ聚楽第にあった頃、「あまりの豪華絢爛さに見とれているうちに
日が暮れてしまった」ということからその名がついた。
大徳寺(だいとくじ)
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