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京都霊山護国神社 にある池田屋騒動殉難志士たちの墓
これらの墓の中には、志士たちのリーダー格だった「宮部鼎蔵」の墓もある
また、池田屋騒動が起ったきっかけを作った「古高俊太郎」の墓もある
池田屋騒動によって、京都の町が火の海になるのを未然に防いだ新選組の働きに
朝廷は大変喜び、6月7日、新選組に対して朝廷より感状と褒賞金が下賜されました。
さらに、幕府からも褒賞金が出ました。
合計で、600両(1800万円)。
その分配は、
・近藤勇 金30両(90万円)、三善長道の刀、酒一樽
・土方歳三 金23両(69万円)
・沖田総司、永倉新八、藤堂平助、他3名 金20両(60万円)
・井上源三郎、原田左之助、斎藤一、他8名 金17両(51万円)
・松原忠司、伊木八郎、中村金吾、他9名 金15両(45万円)
・死亡した3名の隊士(奥沢、安藤、新田) 別途金20両(60万円)
だったそうです。
池田屋騒動で、最初に志士を斬ったのは沖田ですが、沖田が斬ったのは、このひとりだけです。
それどころか沖田はこの後すぐに、吐血して祇園会所に引き返しています。
それなのに、20両とは! 一番隊隊長という役職のおかげでしょうか?
理由はどうあれ、沖田の存在感は、それだけ際立っていたのでしょう。
ちなみに、池田屋騒動に出動しなかった隊士たちには、何も褒美は下されなかったそうです。
6月8日には、長州の浪人が報復のため、新選組のところへ切り込みに来るという噂が流れ、
そのため、屯所である
前川邸
では襲撃に備えて、屋敷を囲む板塀を土塀に替え、警護のための
出窓を設け、邸内に抜け穴を作るなど、屋敷全体を要塞化していきました。
さらに、表門と裏門に木砲を三門すえ、京都守護職に援軍を要請するなど緊迫した状態で、
屯所周辺には特別警戒をめぐらせました。
京都霊山護国神社には、池田屋騒動で殉難した志士たちも祀られていますが、
彼らの本当の墓は、実は別のところにあります。
三縁寺(さんえんじ)
池田屋騒動当時、この三縁寺は三条縄手にありました。(現在の京阪三条ターミナルあたり)
三縁寺は知恩院の末寺です。
池田屋騒動で殉難した志士は9名でした。(負傷後死亡を除く)
邸内で亡くなった者が7名、路上で亡くなった者が2名だったといいます。
これらの遺体は放置されていましたが、この三縁寺に運ばれ、池田屋の女中に身元を確認させて、
手厚く葬られました。
ちなみに三縁寺が元々あった三条縄手周辺には
小川亭
もあり、女将のテイは維新後も池田屋騒動
で殉難した志士たちの墓参を続けたと伝わっています。
かつて、この付近は三縁寺の他にも西願寺・養福寺・高樹院があったことから「四軒寺」と称されて
いましたが、周辺の開発に伴い、これら4つの寺はすべて移転しました。
三縁寺は、昭和54(1979)年に現在の場所に移り、その際、志士たちの遺骨もここへ改葬されました。
三縁寺は通常非公開ですが、申し出ればお参りすることは可能だそうです。
京都市左京区岩倉花園町
門前には「池田屋事変殉難烈士之墓」と刻まれた石碑が建つ
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