このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新見錦 切腹

新見錦(にいみにしき)は天保7(1836)年?生まれで、水戸脱藩士。
神道無念流免許皆伝との伝聞があります。

経緯は明らかではありませんが、芹沢鴨らと交わり、文久3年2月に 浪士組 に参加。

壬生浪士組当初は芹沢・近藤らと共に局長を務めましたが、後に副長となります。

芹沢の側近であったともいわれています。

文久3年9月14・15日、この新見が切腹するという事件が起りました。
伝えられるところによると、次のような顛末であったといいます。


「遊びにのみ耽って隊務を怠ること多く、且つ、度々民家を襲って恐喝し、隊費と称して多額の金を
奪っている。

これらの振る舞いが、他の隊士に発覚し、腹を切らぬというのなら、 隊の法度書 の箇条に照らして、
斬首にもしかねないので、さすが国士を以って自任した新見も遊女屋( 祇園 の山緒(やまのお))に
血を流すような結果になって終わった。」


また、隊士 永倉新八が残した手記にも次のような記述が見られます。

「新選組に新見錦というものがあり、この者は 法令 を犯し、ことに乱暴がひどく、芹沢や近藤が説得
してもいっこうに聞き入れず、ついに一同の結論として切腹させることになった。

ところが、四条木屋町に旅宿する水戸浪人の吉成常郎方へ行き、やはり乱暴を働いたので、
仕方なく水戸浪人の梅津某の介錯によって新見錦は切腹した。」


新選組局中において、このような粛清は、今後も発生することになります。

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