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新見錦(にいみにしき)は天保7(1836)年?生まれで、水戸脱藩士。
神道無念流免許皆伝との伝聞があります。
経緯は明らかではありませんが、芹沢鴨らと交わり、文久3年2月に
浪士組
に参加。
壬生浪士組当初は芹沢・近藤らと共に局長を務めましたが、後に副長となります。
芹沢の側近であったともいわれています。
文久3年9月14・15日、この新見が切腹するという事件が起りました。
伝えられるところによると、次のような顛末であったといいます。
「遊びにのみ耽って隊務を怠ること多く、且つ、度々民家を襲って恐喝し、隊費と称して多額の金を
奪っている。
これらの振る舞いが、他の隊士に発覚し、腹を切らぬというのなら、
隊の法度書
の箇条に照らして、
斬首にもしかねないので、さすが国士を以って自任した新見も遊女屋(
祇園
の山緒(やまのお))に
血を流すような結果になって終わった。」
また、隊士 永倉新八が残した手記にも次のような記述が見られます。
「新選組に新見錦というものがあり、この者は
法令
を犯し、ことに乱暴がひどく、芹沢や近藤が説得
してもいっこうに聞き入れず、ついに一同の結論として切腹させることになった。
ところが、四条木屋町に旅宿する水戸浪人の吉成常郎方へ行き、やはり乱暴を働いたので、
仕方なく水戸浪人の梅津某の介錯によって新見錦は切腹した。」
新選組局中において、このような粛清は、今後も発生することになります。
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