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1年で崩壊したクルド人の独立国

クルディスタン人民共和国(マハバド共和国)

首都:マハバド 人口:20万(1946年)

1945年12月15日 クルディスタン人民共和国が樹立
1946年1月22日 正式に独立宣言
1946年12月14日 イラン軍に平定され崩壊

イラン全図  左上のトルコやイラクとの国境近くに、Mahabadがあります

クルディスタン人民共和国が支配したであろう領域
「祖国を持たない民族」といえば、かつてはユダヤ人がその代名詞みたいなものだったが、現在では約3000万人のクルド人が世界最大だ。クルド人の間では、紀元前8世紀にイラン高原でメディア王国を建国したインドーヨーロッパ語族のメディア人が、自分たちの祖先だと伝えられているが、メディア王国は紀元前6世紀の半ばに、ペルシャ人によって滅ぼされ、以後クルド人はペルシャ、アラブ、トルコ、モンゴル、ロシア、そしてイギリスやフランスによる分割支配を受けてきた。

今ではトルコ領に1300万人、イラン領に570万人、イラク領に420万人、シリア領に100万人、旧ソ連領のアルメニアやアゼルバイジャンに40万人が住み、欧米各国へ難民となっている人たちも多い。トルコ領内のクルド人地区は、第一次世界大戦後に連合国とオスマントルコが結んだ セーブル条約 で、独立に向けた自治の実施が規定されたが、実施されずじまいに終わった。そして第二次世界大戦後、クルド人たちがイラン西北部のマハバドを中心に建国したのがクルディスタン人民共和国(別名:マハバド共和国)だった。

第二次世界大戦でソ連軍がイラン北部に進駐すると、その後押しを受けて現地のクルド人たちは1942年にKJK(クルド建国グループ)という組織を結成した。そして戦後も続いたソ連軍の占領の下で、45年9月にカズィ・ムハンマドらKJKのリーダーたちが同じくソ連軍に占領されていたアゼリ人地区のタブリーズを訪れたところ、 アゼルバイジャン自治共和国 の独立準備が進められていることを知り、それならクルド人も続けと12月にイラン・クルド民主党(KDP-I)を結成。翌46年1月、マハバドでクルディスタン人民共和国の独立を正式に宣言し、カズィ・ムハンマドが大統領に就任した。

 
独立を祝うマハバドのクルド人たちと、演説するカズィ・ムハンマド大統領

独立宣言には、クルド人の自治や、公用語や教育言語としてのクルド語の採用、クルド人による民主的な議会の創設、クルド人による行政運営、アゼルバイジャン自治共和国との連携、法の確立などが盛り込まれた。しかし実際には議会は開設されず、あくまでイラン国内での自治にとどまるのかそれとも最終的に完全な独立を目指すのかがはっきり決めず、おおよそ現在の西アゼルバイジャン州一帯を支配したが領土もはっきりしなかった。しかしアゼルバイジャン自治共和国とは友好条約を結び、経済や軍事面での協力関係にあった。

領土も主権(独立か自治か)もはっきりできないままクルディスタン人民共和国の成立を急いだわけは、46年3月にソ連軍の撤退が予定されていたので、その前にとりあえず既成事実を作ろうとしたためだった。そのため同じイラン国内のクルド人居住地帯でも、南側のイギリス軍占領地域(現在のクルディスタン州)へは勢力を伸ばせなかった。また1930年代からイラクでクルディスタン独立のためのゲリラ戦を続けてきたムスタファ・バルザニが、3000人の仲間を引き連れてKDP-Iに合流したことも独立実現のチャンスだった。バルザニは国防相に就任し、クルディスタン人民共和国の軍を率いることになった。

しかし、46年5月にソ連軍がイラン領内から撤退し、ソ連による軍事支援や経済援助の望みが絶たれると、クルディスタン人民共和国は崩壊への道を辿り始める。クルド人たちはそれまで栽培したタバコをテヘランへ出荷することで現金収入を得ていたが、それが不可能になって困窮した多くの部族が政府に叛旗を翻し、南へと去っていった。またマハバド周辺の部族は、ただでさえ痩せた土地なのにバルザニらイラクのクルド人が流入してくることに不満を抱き、南へ去った部族の土地をバルザニらが独り占めしたことも怒りをかった。

こうしてクルディスタン人民共和国はクルド人たちの支持も失い、46年12月にイラン軍が侵攻するとあえなく崩壊。「反逆罪」に問われたカズィ・ムハンマド大統領はマハバドの広場で絞首刑にされた。またマハバドを占領したイラン軍は、クルド語による学校教育を禁じ、クルド語の出版物を集めて焼き捨てたという。一方でバルザニは再び仲間を引き連れてイラクへ戻り、さらにソ連へ亡命した。

カズィ・ムハンマド大統領の処刑
結局クルディスタン人民共和国は、アゼルバイジャン自治共和国や 東トルキスタン共和国 と同じように、ソ連の思惑によって生まれ、ソ連の都合によって解体したのだった。ソ連がクルド人に独立をけしかけたのは、イラン北部での石油利権の獲得交渉を有利に進めるために過ぎなかった。

その後、パーレビ国王の治世下で弾圧されたイランのクルド人は、1979年のイラン革命では王制打倒に大きな役割を果たしたが、新たに発足したホメイニ政権に「クルディスタンの自治とイランの連邦制実施」を求めて交渉したところ、「イスラム革命に敵対する反革命」だと一蹴され、再び弾圧されている。

一方で、ソ連に保護されたバルザニは、1958年にイラクでクーデターが発生し王制が倒れると再びイラクへ戻り、クルド民主党(KDP)を率いて独立闘争を続けた。70年にはKDPはフセイン政権と協定を結んでクルド自治区を発足させたが、75年に内部対立からクルド愛国同盟が分裂。クルド民主党はイラン政府と対立する一方でトルコ政府と手を結び、トルコ領内で独立闘争をしているクルド労働者党(PKK)とは仲が悪いが、クルド愛国同盟はイラクと対立するイラン政府の支援を受け(※)、クルド労働者党(PKK)と共闘しトルコ政府と対立している。湾岸戦争の後、クルド自治区はフセイン政府の支配から離れたが、クルド民主党とクルド愛国同盟の武力抗争が激化。フセイン政権が倒れた後、現在ではクルド愛国同盟のタラバニ議長がイラク大統領に、クルド民主党のバルザニ議長(ムスタファ・バルザニの息子)がクルド自治区の大統領になって両者は手を結んだが、イラクのクルド人の間では新たにイスラム系の組織が生まれている。

※イランとイラクは1980年から88年にかけて戦争を行っていたが、この時にクルド人がイランに協力したとして、フセイン政権はクルド人を弾圧した。
「国境線で分断されたクルド人が団結して、独立国・クルディスタンを築こう」という理想は唱えられても、現実には独立を目指すクルド人の組織は分裂が続いている。そしてクルド人が住む各国の政府は、自国のクルド人勢力を弾圧しながら隣国のクルド人勢力を支援しているため、クルド人同士の対立を促すことになっているようだ。

クルド人の居住地域(黄色)

★4年間存続した?クルド人の独立国:アララト共和国

コーカサス地方の地図(1919年)  セーブル条約で予定された「クルヂスタン(自治)」の地域が載っています

クルディスタン人民共和国に先駆けて生まれたクルド人の国がアララト共和国だった。

第一次世界大戦に敗れたオスマントルコは、1920年のセーブル条約でバラバラに解体されることになった。トルコの属領だった アラビア半島の独立 を認め、シリアやレバノンはフランスの、イラクやヨルダン、 パレスチナ はイギリスの委任統治領とされ、トルコ本土についても、イスタンブールを中心としたボスボラス海峡は国際管理地域となり、 アルメニア人地区 は独立(暫定的にアメリカの委任統治領とされたが、アメリカは拒否)、クルド人地区も独立を前提とした自治地域となり、ヨーロッパ側の領土(トラキア地区)はイスタンブールを除いてギリシャへ割譲し、アジア側でも イズミール (スミルナ)一帯はギリシャへ割譲、さらに南部はイタリア、南東部はフランスが占領することなどが定められ、トルコの領土は小アジアのほんの小さな部分だけしか残らないことになった。

さすがにこれはヒドいとトルコ人の間で危機感が広がり、軍司令官のケマル・アタチュルクを中心に国土回復の戦いが始まった。イスタンブールの宮廷に対抗してアンカラに新政府が作られ、イズミルから内陸部へ攻め込んだギリシャ軍を追い出したほか、フランス軍も撤退させ、海峡地帯に駐屯するイギリス軍と対峙。さらにアルメニア人を虐殺・追放して、1923年に新たに連合国と結んだローザンヌ条約では、トルコ本土の領有を確保した。こうしてクルド人の自治も取り消されてしまったのだ。

これでは話が違うと、首長やイスラム聖職者に率いられたクルド人が立ち上がり、1927年にトルコ南東部で独立を宣言したのがアララト共和国だった。独立運動にはイランのクルド人たちも加わったが、ローザンヌ条約でトルコの領土が確定したばかりだったので、アララト共和国を承認する国はなく、31年までにトルコ軍によって制圧された。

その後、トルコではクルド人に対して徹底した同化政策が進められ、政府は「クルド人という民族は存在せず、山岳トルコ人なら存在する」という立場を採った。1980年代に入ってクルド労働者党(PKK)による独立運動が盛んになると、トルコは再び武力鎮圧を強化する一方で、トルコ国会でクルド語を使った議員を懲役刑にするなどの弾圧を強めた。

ちなみに国名の「アララト」とは、この地域の象徴たるアララト山のことだが、アララト山はアルメニア人の「心の故郷」でもある。キリスト教徒のアルメニア人がトルコ政府によって虐殺・追放された時、イスラム教徒のクルド人はむしろそれに加担していたのだが、アルメニア人がいなくなった後、続いてクルド人が同化政策によって民族としての存在を「抹殺」される番になったということ。もっとも最近では、国際的な圧力で教育やメディアでのクルド語の使用は解禁されつつあるようだ。


アララト共和国の旗

●関連リンク

クルド問題サイト(暫定)  ん、なんかHPのデザインが似てますね・・・w
 

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