豊川海軍工廠は本野ヶ原と呼ばれるところに建設予定となりました。そこは豊川町、牛久保町、八幡村とまたがっていました。土地の買収は実勢の1/4の価格であり、すんなりと買収に応じることはありませんでした。 そこで住民を監禁状態にし、無理やり買収させてしまったようです。その後建設が始まり、昭和14年12月15日に海軍工廠が開庁しました。その後は海軍工廠を中心に発展していきます。 また町村が3つもまたがっていては、工場の拡張に不便であることから、これらの町村に国府町を含め昭和18年6月1日に合併させました。ここから豊川市が始まります。 その後は色々と町を作り変えながら発展し数年間で住民は何倍にも膨れ上がり、東洋一の工場と言われるほどでした。
もちろん米軍がこれを見過ごすわけはなく、綿密な爆撃計画を立てるため何度も偵察し、昭和20年8月7日にB29の約130機の編隊が26分間に合計3256発の500ポンド爆弾で爆撃し壊滅的なダメージを受けました。同時に機銃掃射も行われたようです。 2500名以上の人が亡くなったとされています。最近の調べでは朝鮮人なども含め3000名を越えていたと言われています。その後は復旧することなく終戦となってしましました。
現在は工廠跡は工場用地に使われ、色々な工場が建ちました。しかし北西部の一部は名古屋大学の研究所として使われ、特に施設の取り壊しなどされず、放置されていたこともあり、当時の姿のまま見る事ができます。他にも遺構が何点も残っています。
海軍工廠空襲は広島、長崎の原爆の間に行われ新聞にも少し爆撃があった程度しか報道されず影に隠れてしまったが、かなり被害が大きいものだといえます。