このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



   豊川海軍工廠


はじめに


 祖母が元々ここで働いていて、戦争時の話を何度か聞いたことがあった。当時は豊川に住んでおらず、この辺りには用が無かったためほとんど近寄ったことが無かった。  豊川に住んでから地図を見るとここの部分だけ妙に変わった形をしていることに気づいた。そんなことから、ここが海軍工廠跡地であることを知った。  今でも戦争時の施設が残っていることがわかり興味がわいてきたので色々と調べてみました。


概要


 豊川海軍工廠は本野ヶ原と呼ばれるところに建設予定となりました。そこは豊川町、牛久保町、八幡村とまたがっていました。土地の買収は実勢の1/4の価格であり、すんなりと買収に応じることはありませんでした。  そこで住民を監禁状態にし、無理やり買収させてしまったようです。その後建設が始まり、昭和14年12月15日に海軍工廠が開庁しました。その後は海軍工廠を中心に発展していきます。  また町村が3つもまたがっていては、工場の拡張に不便であることから、これらの町村に国府町を含め昭和18年6月1日に合併させました。ここから豊川市が始まります。  その後は色々と町を作り変えながら発展し数年間で住民は何倍にも膨れ上がり、東洋一の工場と言われるほどでした。
 もちろん米軍がこれを見過ごすわけはなく、綿密な爆撃計画を立てるため何度も偵察し、昭和20年8月7日にB29の約130機の編隊が26分間に合計3256発の500ポンド爆弾で爆撃し壊滅的なダメージを受けました。同時に機銃掃射も行われたようです。  2500名以上の人が亡くなったとされています。最近の調べでは朝鮮人なども含め3000名を越えていたと言われています。その後は復旧することなく終戦となってしましました。
 現在は工廠跡は工場用地に使われ、色々な工場が建ちました。しかし北西部の一部は名古屋大学の研究所として使われ、特に施設の取り壊しなどされず、放置されていたこともあり、当時の姿のまま見る事ができます。他にも遺構が何点も残っています。
 海軍工廠空襲は広島、長崎の原爆の間に行われ新聞にも少し爆撃があった程度しか報道されず影に隠れてしまったが、かなり被害が大きいものだといえます。  


歴史
1936年(昭和11年)
建設計画決定
1938年(昭和13年)06月01日
建設予定地決定
1938年(昭和13年)07月
土地買収開始
1939年(昭和14年)12月15日
開庁
1942年(昭和17年)05月12日
西豊川支線を開業
1945年(昭和20年)01月27日
名古屋鉄道が国府ー市役所前を開業
1945年(昭和20年)02月
海軍工廠へ初の空爆。被害は小規模
1945年(昭和20年)08月07日
大空襲により壊滅
1945年(昭和20年)08月15日
終戦
1945年(昭和20年)10月05日
廃止
1951年(昭和26年)06月01日
遺体発掘開始


当時の遺構
正門
南大通
旧太陽地球環境研究所(夏)
海軍用地標柱01
海軍用地標柱02
陸上自衛隊豊川駐屯地
東堀
型鍛造工場引込み線?
佐奈川
門柱?
市役所の松
諏訪慰霊碑前の門柱
道路跡
電柱
ドブ
旧太陽地球環境研究所(冬)
西豊川支線(特設ページへ)
小坂井支線(特設ページへ)


戦後建設
平和の像
豊川海軍工廠戦没者供養塔1
豊川海軍工廠戦没者供養塔2
豊川海軍工廠諏訪慰霊碑

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