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インドネシア(ジャワ)の鉄道に乗る


私の好きなインドネシア - インドネシアの鉄道に乗る

インドネシア鉄道史


黎明
19世紀~20世紀初め
発展
20世紀前半
混乱
第二次大戦/独立戦争
復興
1950~80年代
現在
1990年代以降


★ 混乱(第二次大戦/独立戦争)

 1939年、第二次世界大戦が勃発し、それはインドネシアの鉄道に再び大きな影響を与えた。NIS(Nederlandsch-Indische Spoorweg:蘭印鉄道)が計画していた、Beijnesからのディーゼル車・電車購入、およびWerkspoorからの流線型の車体をした標準ゲージ仕様の高速蒸気機関車購入はキャンセルされた。なぜならば、オランダがドイツに占領されたからであった。1942年、日本は蘭領東インド(今のインドネシア)へ侵攻し、占領した。この占領により、ジャワの全ての鉄道は、Tetsudo Kyoku(鉄道局:*1)として知られる軍管理下のもと統合されたのであった。スマトラの鉄道も同様に占領軍によって管理された。

*1「インドネシアに残る日本語」
 romusha(労務者)、seinendan(青年団)、seinendojo(青年道場)といった単語は、いまだに辞書に載っていますが、Tetsudo Kyokuは見当たりませんでした。しかし、鉄道関係では知られている単語なのかもしれません。う~ん、今度渡航した際に国鉄の職員(駅員)にでも「Tetsudo Kyoku」を知っているか、聞いてみましょうか。ちょっと反応が怖いのですが(^_^;)。


 日本の占領下、全ての標準ゲージ線路を含む多くの線路が、引き上げられていった。その際、標準ゲージ線路は、1067mm幅へ変更された。また、40両の機関車を含む多くの鉄道車両が日本の占領地域(マラヤ、シャム、インドシナ)へ送られた。多くの戦争捕虜および現地人(一般に romusha[労務者](*2)として知られている)が、日本占領地域の新路線建設のために徴用されていった。それには、サクティ(Saketi)−バヤ(Bayah)間の路線(*3)、マウロ(Mauro)−パカンバル(Pakanbaru)間の路線といったインドネシア内の新路線建設も含まれていた。その後者の路線は、日本が降伏する頃にやっと完成したため、使われることはなかった。当時既に老朽化していた機関車は、スペアパーツの不足、保守整備の欠如といった状況のため、更に消耗していった。

*2「romusha(労務者)」
 いったいどれくらいの人たちが徴用されたのか、よく分かっていないらしいのですが、旧日本軍側の調査では約10万人(東南アジア全地域で)という数字があるらしい。(読売 1995年8月8日「終戦50年・・・対岸から報告1」 この記事では、太平洋戦争中、中部ジャワの農村から徴用され泰緬鉄道建設に従事。その後現地に残ってしまったジャワ人労務者が紹介されていました。)


*3「サクティ(Saketi)−バヤ(Bayah)間の路線」
 バヤの石炭鉱山(品質が悪く、あまり役に立たなかったようですが)への鉄道建設だったようです。次の本で読んだ記憶あり。「日米開戦 勝算なし」NHK取材班、角川文庫


 1945年8月17日、インドネシアは独立を宣言した。そして、同年9月28日、日本側は、インドネシア独立の闘士たちへ鉄道の管理支配を引き渡すことを余儀なくされた。この日は「鉄道の日」として祝われている。こうして、ジャワの鉄道はインドネシア共和国鉄道局(Djawatan Kereta Api Repoeblik Indonesia)によって管理されることになり、スマトラの鉄道は、インドネシア共和国スマトラ鉄道局によって管理されることとなった。しかし、大戦後、オランダがインドネシアへ戻ろうとした際に、彼らは一時的な管理のために、国鉄/鉄道企業連合(Staatsspoorwegen/Verenigd Spoorwegbedrijf)を設置した。

 インドネシア独立軍とオランダ軍との間には数多くの戦いが鉄道をめぐって発生した。実際のところ、鉄道の線路は、しばしばオランダ軍占領地域とインドネシア共和国支配地域との境界線となっていたためであった。1946年2月3日(*4)、大統領スカルノ、副大統領モハマド・ハッタ、そして側近たちが特別列車によって、身辺が危うくなったジャカルタからジョグジャカルタへ脱出した。また、列車は、武器を隠して運んだり、独立軍兵士の輸送にも利用された。

*4:スカルノたちがジャカルタを脱出して、ジョグジャカルタへ避難。同時に首都もジョグジャカルタとなったのは、1946年1月4日ではないかと思うのですが、、、もう少し調べてみます。 「30 YEARS OF INDONESIA'S INDEPENDENCE」(STATE SECRETARIAT)には、1月4日とある。1945年末からオランダ軍がジャカルタ周辺の兵力を増強。危うくなったスカルノ他がジャカルタを脱出した、とあります。

 戦闘が激しくなっても、鉄道の運行は維持されていた。旅客列車は、共和国の主要な都市(Cisurupan, 鉄道局の本部;ジョグジャカルタ,共和国の首都;マラン など)間を走り続けた。クトアルジョ(Kutoarjo)−プルウォルジョ(Purworejo)間(*5)のような日本によって撤去されてしまった路線も修復された。

*5「クトアルジョ(Kutoarjo)−プルウォルジョ(Purworejo)間」の線路
地図を見る限りでは、プルウォルジョ(Purworejo)との間に線路はもうないようです。


◆原文
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 このページは著者了解のもと、原文(英文)を和訳したものです。黄色の背景で小さい文字の部分は訳注です。
 また、翻訳作業にあたっては、アット・ニフティ掲示板「バリとインドネシア」参加者のご協力をいただきました。
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