・黒字化の達成
1991年、PJKAは、Perumka(Perusahaan Umum Kereta Api:直訳すると"鉄道公社")へ改編された。Perumkaは、内部的な相互補完~つまり、新型の快適かつ高速の列車を高額運賃で導入し、それによって運行コストの70%しかカバーしていないエコノミー列車の低料金を補完すること~を開始した。
ソミノ・エコサポトロ(Soemino Ekosapoetro)による、この新しい経営は成功を収めた。1994年、Perumkaはインドネシア独立後の鉄道では初めての利益、約38億8千万ルピア(約800万US$ *1)を生み出した。1997年には、Perumkaの利益は、232億ルピアに達した。
*1:どうも桁が多すぎてよくわかりません。このUS$換算は妙だと思います。原文「3.88 billion rupiahs (then about 8 million US dollars)」。3.88×10億ルピア=38億8千万ルピア。これが800万US$と等価ならば、換算レートは、Rp.485/US$となります。今のレートだと、Rp.8000/US$程度。1993年頃でもRp.2000/US$だったはず。
高速走行を可能とするための数年間にわたる線路のアップグレードの後、インドネシア独立50周年とほぼ時を同じくして、1995年8月10日、Perumkaは、2つのArgo特急を導入した。このArgo特急は特別料金の全席Eksekutifシートによる高速旅客列車だった。この特急は、利益を生み出すだけでなく、従来のイメージ~汚くて、低速、不快な交通手段であり、インドネシア社会で増加しつつある中間階層には適さない~を払拭する新しいイメージも生み出した。
・スマトラでは
さて、ジャワでは、貨物列車よりも旅客列車のほうがはるかに重要だったが、他方、南スマトラにおいては、タラハン(Tarahan)港へ石炭を運ぶタンジュン・エニム(Tanjung Enim)のブキット・アサム(Bukit Asam)鉱山が鉄道の重要な顧客であった。また西スマトラにおても、オンビリン(Ombilin)炭鉱が、パダン(Padang)のインダルン(Indarung)セメント工場へ石炭を運ぶために鉄道を利用している。
・1997年経済危機以降
1997年半ばにインドネシアを襲った経済危機は、1929年の世界恐慌に比べられるかもしれない。この経済危機によって困難とチャンスがもたらされた。ルピアの対米ドルレート下落は、新しい機関車の発注を減少させ、保守費用の増大と利益の減少を引き起こした。特急列車の速度は、わずかではあったが、再び引き下げられた。
他方、チャンスは旅客列車の需要増大という形で現れた。それは、US$建てだった航空運賃がきわめて高額となり、常に航空機を利用していた顧客たち、とりわけ中間層が、鉄道を代替として見はじめたためであった。それに対して、Perumkaは、Dwipangga, Mahesa (*2), SancakaといったEksekutifクラスとBisnisクラスによって構成された特急列車を初めとする新列車を導入することによって対応した。
*2「Mahesa」は、1998年にBandung - Semarang間で運行を開始するも、旅客数がのびず、2000年で運転打ち切りとなった。
Perumkaの経営は、1999年6月1日、さらに改編され、PT (Persero) Kerata Api Indonesia (インドネシア鉄道会社)と名称を変更した。新しい運営陣は、新しい列車を導入し、新しい線路を建設する計画を継続した。
近年、インドネシアの鉄道は厳しい難問に直面している。昨年(2001年)の鉄道の安全記録は、決して誉められたものではなかった。また、その旅客、特に通勤客たちは、より多くの快適さと信頼性を要求しているし、経済的な制約が状況をより困難なものとしている。しかし、インドネシアの鉄道はこれまで生き延びてきたし、将来成功するであろう。
◆原文
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History of Railways in Indonesia
このページは著者了解のもと、原文(英文)を和訳したものです。黄色の背景で小さい文字の部分は訳注です。
また、翻訳作業にあたっては、アット・ニフティ掲示板「バリとインドネシア」参加者のご協力をいただきました。
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