このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の好きなインドネシア へ戻る

インドネシア(ジャワ)の鉄道に乗る


私の好きなインドネシア - インドネシアの鉄道に乗る

インドネシア鉄道史


黎明
19世紀~20世紀初め
発展
20世紀前半
混乱
第二次大戦/独立戦争
復興
1950~80年代
現在
1990年代以降


★ 復興(1950~80年代)

 1950年にインドネシアが完全な独立を達成した後も、鉄道の状態は酷いものだった。10年間に及ぶ戦争とメンテナンスの欠如のため、鉄道車両・線路・他設備は破壊されるか破損していた。
 しかし、鉄道は再建された。100両の汎用蒸気機関車が発注され、苦難の時代に消耗してしまった線路は引きなおされた。また、戦争中の焦土作戦のために破壊された建築物も再建され、新しい車両も発注されたのである。

 独立の初期は、苦難の連続だった。反乱の火の手が各地で上がった。それは鉄道にも影響を与えた。たとえば、西ジャワのDI/TIIの反乱では、列車に地雷をしかけたり、線路の留め金を緩めたりしたため、それが脱線の原因となった。また、1953年2月2日にワルンバンドレック(Warungbandrek)とマランボン(Malangbong)の間で8306号列車が攻撃されたときのように、時には人命を失う原因ともなった。また、1951年8月23日には、チルボン近郊のチャンクリン(Cangkring)駅が、攻撃により焼失している。反乱が頻発する地域を列車が通過する際には、装甲車両が先導した。また、列車自体が装甲車両や数台の台車を押しながら進み、地雷を爆破除去していた。(こうして、列車を地雷から守っていた。)

 1950年代と60年代は、インドネシア鉄道の史料編纂家に言わせれば、"生き残り時代"だった。鉄道は、運行を維持するために補助金を必要としていた。多くの路線は採算が取れておらず、機関車用の十分なスペアパーツを入手することが主要な問題となり、鉄道線路の状態は悲惨であった。

 しかし、そういった時代がまったく無駄であったわけではない。1953年には、アメリカからの27両のCo-2-Co機関車によって、ディーゼル化が始まり、1957年~1967年にかけては、約250両のディーゼル機関車が導入されて、主要な路線や長距離の旅客列車で蒸気機関車に取って代わった。また、新しい客車もその頃導入された。もちろん、それは主要な路線の列車に制限されており、古い装備が傍系の路線では依然として残ってはいたが。また、新しい真空ブレーキを装備した貨車が、ジャカルタ−スラバヤ間の夜間高速運送サービスのために導入された。

 1963年、インドネシアの全公共鉄道は、国営鉄道会社(PNKA:Perusahaan Negara Kereta Api)という新しい組織の元で統合された。それまでは、北スマトラのデリ鉄道が、1958年の国有化後、別に管理されていたのである。1973年には、PNKAは、PJKA (Perusahaan Jawatan Kereta Api:*1)へ名称変更し、さらに管理体制が変革された。

*1「Perusahaan Jawatan Kereta Api」:良い日本語訳が思い浮かびません。Perusahann(会社、企業)、Jawatan(局)。英訳だと単純に「Indonesian state railways」(インドネシア国鉄)と当てているようです。(これでは、PNKA:Perusahaan Negara Kereta Api とほとんど変わらん。)

 "生き残り時代"、概して鉄道の運行は悪化の一途を辿っていた。しかしながら、1970年代に入ると、有名なジャカルタ−バンドゥン間を走る特急(*2)の速度を引き上げ、3時間以上かかっていた状態から1930年代末のように2時間30分へ戻そうという試みがなされた。それは成功したが、路線保守費用がかさむため、速度は再び低下した。

*1:有名なジャカルタ−バンドゥン間を走る特急とはなんでしょう? 1970年代もParahyangan号だったんでしょうか。

 また、1970年代には、かつてトラム用に使われていた路線が放棄された。それは、経済的に存続する基盤が失われ、乗客輸送に不十分となったからである。そういった路線の中には、アチェ全土及びマドゥーラ全土の交通システムやジャワの支線が含まれていた。現在では、プルウォサリ(Purwosari)−ヴォノギリ(Wonogiri)間の路線(旧NIS:蘭印鉄道会社)が、厳密な意味で(市の中心でメインストリートに沿って走っている)唯一の、依然として運行されているトラム鉄道である。これらの路線が撤去されると、そこを走っていた蒸気機関車も引退となった。この過程は、1980年代半ばまでには完了した。

 しかし1970年代初頭においても、多くの蒸気機関車が既に使われていない状態だった。中部ジャワ州知事スパルジョ・ルスタム(Soepardjo Roestam)は、アンバラワ(Ambarawa)の駅構内に機関車博物館を建設することにした。後に、全ての蒸気機関車が引退した際、多くの蒸気機関車がジャカルタの博物館にも保存されることになった。また、他の場所にも多くの蒸気機関車が保存された。現在、インドネシアでは60両以上の蒸気機関車が保存されている。

 ディーゼル化及び不採算路線の放棄によってPJKA("国鉄"とします)の財政状況は改善された。しかし、依然として政府からの補助金を必要としていた。また、国鉄は新たな財源を創造しようともしなかった。もっとも明白なことは、新列車の導入が不足していたことであった。

◆原文
History of Railways in Indonesia 外部サイトのページへリンクしています
 このページは著者了解のもと、原文(英文)を和訳したものです。黄色の背景で小さい文字の部分は訳注です。
 また、翻訳作業にあたっては、アット・ニフティ掲示板「バリとインドネシア」参加者のご協力をいただきました。
前のページへインドネシア鉄道史:混乱 インドネシア鉄道史:現在次のページへ
↑ページ最上部へ
Copyright © 1997-2018 Dien

私の好きなインドネシア

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください