このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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 模型 

青函連絡船に乗船した記憶です。

現在のように、飛行機やJRがトンネルで移動できる以前の話です。

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修学旅行で本州への移動は青函連絡(4時間弱でした)。現在のカーフェリーも当時と航行時間は変わらないようですが・・
津軽海峡がシケる(荒れる)と結構船酔いしました。出航の時には、紙テープで見送る風情がありました。 
でもあのテープの残骸をどなたがかたずけていたんでしょうか?(紙テープでの見送り時期不明ですが禁止になったはず・・)
青函連絡船は、貨客船で貨車の輸送がメインで到着後55分間で貨車を下ろし、折返しの貨車を搭載。乗客の乗船も一緒。
一等船室では乗客をもてなすために飾り毛布を折っていたようですが、出航までの時間が短くなり廃止されたそうです。
新型連絡線は、昭和29年の洞爺丸事故を教訓に当時の最新技術を駆使して、昭和39年に『津軽丸』が完成し
同型の船が7隻作られました。津軽丸・八甲田丸・松前丸・大切丸・摩周丸・羊蹄丸・十和田丸が、昭和41年までに
就航しました。
       
津軽 昭和39年5月 津軽丸型全7隻のうち最初に就航しました。
 昭和57年に松前丸と共に引退。
 この船から煙突のマークが「JNR}になりました。
  
 (煙突のマークは、国鉄民営化により「JR」の表示になります)
八甲田 昭和39年7月就航 青函トンネル開通による津軽海峡線の
 開業により、昭和63年3月13日の終航まで23年7ケ月運行
 されました。
 現在は、青森港に『メモリアルシップ』として保存されています。
十和田 昭和41年11月就航 津軽丸型最後の第7船として建造。
 昭和63年9まで運行され、その後日本旅客船に売却され
 クルーズ客船 「ジャパニーズドリーム号」 と改名され、
 平成4年1月まで横浜・神戸間で運行。
摩周 昭和40年6月就航 現在は、函館港に『青函連絡船摩周丸』
 として 保存されています。
 連絡船は、1日に最大30往復(旅客は10往復)の時代も
 ありました。。
摩周船尾 保存されている『摩周丸』の船尾です。
 船尾の貨車搬入口には石油類などの危険物搭載車両も運ぶ
 ため、貨車を船から海中へ投棄する設備も設置されていました。
入替 貨車の積み出し作業の様子です。
 船内の車両甲板に4線が敷設され、貨車48両の積載が可能
 でした。
いかだ 救命いかだは、甲板の片側3ケ所ずつ設置され、投下されれば
 炭酸ガスが自動注入されて膨張し海面に浮きます。
 津軽丸では、甲板から海面まで滑り降りる膨張式滑り台が搭載
 されました。
摩周座席 係留されている摩周丸のグリーン席です。一人掛けのゆったりと
 したリクライニングシートで、背もたれは65度傾斜するため、
 ほとんど寝た感じになります。
 また椅子ごとに読書灯がついており、他人に迷惑をかけないで
 読書ができます。

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