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2006年11月3日:渡船(森下渡船・葛木渡船)を利用したハイキングの記録です。
コースタイム:
海津駐車場9:25→森下渡船9:45→葛木(かつらぎ)渡船10:10→津島天王川公園12:10/13:45→津島駅14:10/14:35 →弥富→桑名→美濃松山15:55-(車)→海津駐車場
ご注意:今回利用した森下渡船・葛木渡船は2011年3月末、廃止となりました。
─ 森下渡船 ─
岐阜県と愛知県の県境となる木曽川、長良川には何箇所かの渡し舟が今も残っている。
今回はこのうち、海津市の森下と愛西市の葛木の間の森下(長良川)渡船、葛木(木曽川)渡船を利用して 津島まで歩くハイキングを実施した。
写真左:長良川西岸の渡船場小屋(2006.10.22.撮影)
写真右:渡船場小屋の看板。県営だが、海津市に業務委託しているので、予約は海津市役所で受け付けている。
─ 葛木渡船 ─
北の東海大橋と南の立田大橋の間、木曽川と長良川を仕切る堤防(背割堤)が続いている。 地形図で見る限り民家はない。(増水すると流されるから?)この堤防をはさんで、森下渡船と葛木渡船が 東西をつないでいる。このあたりは、長良川が県境になっており、仕切堤防は愛知県である。
葛木渡船は東岸に渡船小屋があって、船頭さんが常駐しているらしい。(仕切堤防の側に小屋はない)
つまり、仕切堤防に人は住んでいないから、東から乗って仕切堤防へ渡る人が殆どで、渡れば、必ず戻って くるわけで、対岸を見ていて、手を振って合図をしていれば、お迎えに行く。
写真左:(背割堤)「葛木の渡し跡」という碑。現存するのに「跡」というのもちょっと変?
写真右:(背割堤)碑の裏面の説明。
「尾張国地名考に『昔はここより長島へ越したり是を葛木の済 (わたり)といふ』とあります。寛永元年(1624)に立田輪中が造成され、その後、近くの村人たちが 対岸の森下村への渡しとして利用していました。明治の改修で新しい木曽川ができ、現在は、葛木の 渡しの航路を森下渡船として岐阜県が運営しています。」と書いてある。
─ 木曽川 ─
木曽川、長良川、揖斐川を木曽三川(きそさんせん)という。この愛西市(旧立田村)、海津周辺は海抜0mの 地域が広がっており、遠い昔から河川の氾濫に悩まされてきたところ。宝暦治水といって、江戸の昔、 幕府が薩摩藩にこの地域の治水工事を施工させたのはこの地域ではよく知られている。
その後、明治に入ってからも改修工事が継続実施されたと、説明の看板があった。中でも、 木曽川は、明治の工事以前は長良川と合流し、一部が分流して少し東側に佐屋川となって流れていた。 この明治の改修工事で、今の木曽川の場所に水路を開き、堤防を築いて、佐屋川は締め切り、「廃川(はいせん)」 にした、とあった。(「葛木の渡し跡」の碑に書いてあることと一致している)
今回、地形図を持って、津島へ向かって歩いていくうち、現在の海部幹線水路のあるあたりが 佐屋川(旧木曽川の支流)であることが知れた。地形図の中に幅の広い見事に蛇行する堤防跡が浮かびあがっている。
現地を歩いてみると、宮地には、かつて、佐屋川の渡船場があったという説明板にも 行きあたった。
写真左:佐屋川のあったところ。この左に藤棚(下新田の藤)があって、ここが佐屋川の渡船の舟着き場 (東岸)だったという説明書きが立っている。
写真右:津島市内。天王川公園。大きな池がある。この池は元々、佐屋川の支流の一部だったとのこと。
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