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三和三松炭鉱専用軌道
三和三松(さんわみまつ)炭鉱専用軌道の基礎知識
開設 大正11(1922)年:王城炭鉱第2鉱線用軌道として
廃止:昭和29(1954)年12月
川部村(現
軌間 610mm
全長 1.17km(新鉱専用軌道分岐点より)
川部村の採炭事情 2
大日本炭鉱新鉱のある三沢地区から北西に進んだ所にある塩田地区では、
明治30年頃から小規模な採炭が行なわれていたが、いずれも数年程の短期間であった。
大正6(1917)年、王城炭鉱がこの地区に本格的に進出し王城炭鉱第2鉱として採炭を開始した。
王城炭鉱は明治36(1903)年、河合芳次郎氏によって創立され、内郷白水地区に
第1鉱
を稼働させていた。
石炭の搬出は当初、勿来軌道を利用して搬出していたが、炭鉱から離れており、また中小炭鉱がひしめきあう中での運搬には難があった。
専用軌道の開設
そこで、王城炭鉱は三沢地区の東海炭鉱(→大日本炭鉱東海鉱→大日本炭鉱新鉱)が敷設した専用軌道から分岐する専用軌道を
大正11(1922)年に敷設した。
大正13(1924)年には、勿来駅西口に400t収容の木造石炭積替所を完成させた。
閉山と再開、買収
王城炭鉱は順調に第2鉱での採炭を強化していったが、昭和2(1927)年5月に端を発した労働争議により翌昭和3年2月にあえなく閉山してしまう。
昭和12(1937)年に中村採炭㈱がこの鉱区に進出し「中村採炭三松鉱業所」として再稼働した。
戦時中の昭和19(1944)年、石炭増産の勢いに乗った三和炭鉱㈱が中村採炭を買収し「三和三松鉱業所」となる。
三和炭鉱は王城炭鉱が敷設した専用軌道を整備して「三和三松炭鉱専用軌道」として勿来駅への運炭を開始した。
三和三松専用軌道では自前の機関車を所有した。
当初は日本製の蒸気機関車を使用していたが、程無くして2機のドイツ ハノーファー社製蒸気機関車を導入した。どちらも1905(明治38)年製造の古豪である。
メインで使用していたのはB21形と言う蒸気機関車で元鉄道聯隊(てつどうれんたい)所属の双合機関車の片割れである。
上の画像がA21形+B21形双合機関車のオリジナル形態である。画像の低い屋根の方がB21形。こちらを三和三松で使っていた。
もう一方の高い屋根の方のA21形は
新鉱専用軌道
で使われていた。
三和三松では予備機としてA7機関車も在籍していた。A7蒸気機関車も元鉄道聯隊所属の双合機関車の片割れである。
A7は鉄道聯隊所属時の1913(大正2年)に車輪配置を0−6−0(3軸)から0−8−0(4軸)に改造された機関車である。
三和三松炭鉱の閉山とその後
月産2000〜2500tを産出してきた三和三松炭鉱であるが、昭和29(1954)年夏の異常出水と当時の炭鉱不況等が重なり同年12月31日に一旦休山してしまう。
同時に専用軌道の運行も停止されたようだ。
昭和32(1957)年に入り、意外な企業が救いの手を差し伸べる。
北海道の大手採炭企業である羽幌炭鉱鉄道㈱である。
羽幌炭鉱鉄道
は昭和15(1940)年に設立された採炭会社で築別、羽幌、芽沼など北海道各地に炭鉱を所有していた。
羽幌炭鉱鉄道三松鉱業所として再出発した炭鉱は最新機械の導入などで月産3000トンを採炭した。
しかし、昭和30年代後半に入ると、炭鉱内のガス濃度増加、出水の増加、断層の出現など様々な事情が重なり三松鉱業所の赤字が重み、
ついには昭和38(1963)年4月30日に閉山になってしまう。
羽幌炭鉱鉄道自体も昭和45(1970)年に倒産する。
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