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磐城軌道(日本鉄道事業)
〜零細路面軌道の末路〜
磐城軌道(日本鉄道事業)の基礎知識
開設 大正3(1914)年7月21日
廃止 昭和3(1928)年12月末日(運転終了)
内郷村小島
全長 6.0km
軌間 762mm
白水軽便鉄道の存在
明治時代の石城郡(現在の
江戸時代後期に郡内で発見された石炭は石城郡内を急激に変化させた。
石炭の搬出に鉄道が用いられるようになり、明治20(1887)年にはこの地域最初の鉄道として「
磐城炭鉱軌道
」(明治20年〜昭和19年、上湯
地元大手採炭会社の入山採炭の創始者の一人でもある白井遠平氏は、上記の磐城炭鉱軌道に接続する
運炭軌道「白水軽便鉄道」を明治27(1894)年に開設した。(内郷村白水高倉〜内郷村綴藤棚〜湯本村湯本天王崎 6.08km)
明治30(1897)年に開通した専用鉄道 高倉線により白水軽便鉄道は3年余りの短い活動期間を終え廃止された。
白水軽便鉄道の内郷村綴字藤棚(
間の軌道敷は17年の後に磐城軌道の軌道敷として再活用される事になる。
磐城軌道の設立
明治中期以降、石城郡内の湯本村、内郷村の人口は急速に増え、両村と商業中心地である平(
当時、平〜内郷〜湯本を結んでいた国道15号線(現 国道6号線)上に軌間762mmの軌道を敷設する計画であった。
明治44(1911)年9月に磐城軌道株式会社が設立され、実際の軌道の敷設工事は大正2(1913)年1月より開始された。
大正3(1914)年7月21日に磐城軌道は営業を開始した。
当初は長橋、御厩(みまや)、綴(つづら)、傾城(けいせい)、湯本(天王崎)の5停留所を設置し、
12人乗り客車を馬力によって運行する馬車軌道として運行が行なわれた。
磐城軌道の消滅
華々しく開業し、景気絶頂期の大正8(1919)年まで順調な営業を続けていた磐城軌道であったが、
同年を境にして急速に消滅への道を辿る事になる。
大正9年以降、第一次世界大戦後の反動不景気に襲われた日本経済は石城郡内にもその影を落とした。
乗客数は頭打ちとなり、加え翌大正10(1921)年と11年に福島県を襲った水害は磐城軌道の軌道敷他諸設備を破壊した。
特に大正11(1922)年2月16日の水害は深刻で、事務所や軌道の流出と言う被害を蒙り、
磐城軌道は存続の瀬戸際に立たされてしまった。
この窮地を救ったのが「日本鉄道事業」である。
役員の一人が石城郡出身と言う縁もさることながら、自社で開発した「自動客車」の格好のデモンストレーションの場として、
また、鉄道運行業への進出の足がかりとして磐城軌道に目を付けたのだ。
大正11年12月27日、運行免許が日本鉄道事業に譲渡され、磐城軌道株式会社は11年の歴史を閉じた。
日本鉄道事業による経営とその顛末
日本鉄道事業は東京市(東京都)麹町八重洲に本社を置き、自社開発の「自動客車」(片運転台付きガソリンカー)の販売、
アメリカ プリマウス製機関車の輸入販売を手掛ける会社であった。
大正12(1923)年1月より軌道の運行を引き継いだ日本鉄道事業は、早速自社開発の自動客車(
好間軌道
に納入した物と同形式)2両を製造し
大正13(1924)年よりそれまでの馬車に変え、運行を開始した。
しかし、思わざる事態が日本鉄道事業を襲う。
「関東大震災」(大正12年9月1日)の発生である。
震災により軌道敷自体もダメージを受け、日本鉄道事業の経営にも少なからぬ影響を及ぼしたのだが、
その後日本各地に爆発的に普及した「乗合自動車」が軌道の命運を絶って行く事になった。
軌道の修繕による経費の増大や、乗合自動車普及による乗客の減少により日本鉄道事業の経営はみるみる間に悪化し、
昭和3(1928)年の累計損金は6万円余を数えるに至り、同年末で軌道の運行は停止された。
その後、軌道のレールは昭和4(1929)年8月頃に撤去され、
翌昭和5(1930)年に綴地内にあった日本鉄道事業の事務所も閉鎖され、
磐城軌道時代より15年弱に渡る短い軌道の歴史は幕を閉じた。
日本鉄道事業のその後の消息は明らかでない。
現在…内郷掘阪地内に一つ残る石碑だけが同地に軌道が存在した事を伝えるのみである。
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