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好間軌道
〜超短命軌道の顛末〜
好間軌道の基礎知識
開設 大正10(1921)年4月21日
廃止 昭和5(1930)年8月8日(営業休止許可)
平(
全長 4.3km
軌間 762mm
好間村の交通事情
好間村(現
明治30年代頃より好間村にも炭鉱開発の手が伸び、搬出された石炭の輸送手段の整備が急がれた。
村内で稼働を始めた好間炭鉱(後の古河好間炭鉱)は明治37(1904)年に坑口付近の北好間村椎木平〜平駅(現 いわき駅)まで
全長5.5kmの馬車軌道を開通させた。
この馬車軌道は搬出された石炭の輸送の他にも地元民を平駅まで輸送していたようだが詳しい事は不明である。
磐城炭鉱、入山採炭の常磐炭田内の大手2社の設立に関わり、
専用鉄道 小野田線
や
専用鉄道 高倉線
の敷設に尽力し、
石城郡政財界の重鎮であった好間炭鉱創始者の白井遠平氏は、明治40(1907)年に北好間村籬(まがき)〜綴駅(現 内郷駅)間 に
専用鉄道(後の
古河好間炭鉱専用鉄道
)を開通させた。
専用鉄道
好間軌道の設立
馬車鉄道廃止後、好間村から平駅までの旅客、生活物資の輸送手段はもっぱら荷馬車などが用いられていたが、
その輸送力は貧弱であり、また割高であったとも言う。
当時の石城郡内には
勿来軌道
(明治43年開通)や磐城軌道(大正3年開通)などの路面(馬車)軌道が敷設され一定の成果を挙げていたことから、
好間村の有力者達により好間村中心部〜平駅付近までの旅客輸送鉄道の敷設計画が進められた。
上記の2軌道よりかなりの遅れを取ってしまったが、好間軌道は大正7(1918)年7月に敷設免許を取得し、
同年10月には好間軌道株式会社が正式に設立された。
好間軌道の開業と「自動客車」の導入
好間軌道は大正8(1919)年9月より敷設工事に着手したが、水害などにより完成が遅れ、暫定的に平停車場〜竪坑前間3.46kmが
開通したのは大正10(1921)年4月21日の事であった。
残る竪坑前〜北好間間は大正12(1923)年に開通した。好間軌道の全長は4.3㎞となった。
当初は馬車鉄道として開通する予定だった好間軌道だが、開通前に動力の変更許可を申請した。
「自動客車」の導入である。
「自動客車」とはガソリンエンジンを動力とする長さ4M、幅1.8M、高さ2.7M 定員12名のたいへん小型の気動車であったと言う。
東京麹町八重洲に本拠を置く「日本鉄道事業」なる会社が車体を製作し、アメリカ製のエンジンを積載していたと記録される。
本体価格8千円(!!!)と言う当時としては驚くべき高値(当時のT型フォード自動車が500円)を誇る
この自動客車を好間軌道は開業時に2機揃えた。
大正11(1922)年には3号機も導入し、3台体制の運行が行なわれた。
好間軌道の早過ぎる終焉と会社のその後
こうして平〜好間村中心地までの運行を開始した好間軌道であったが経営は比較的順調だったようだ。
自動客車の導入による初期設備投資を除き、大正10(1921)年から昭和2(1927)年まで黒字を計上していた事からも
好間軌道の経営陣の先見性の高さと効率的な会社経営が成されていたことが伺える。
しかし、大正12(1923)年の関東大震災の発生を境にして好間軌道の運命は急速に終末へ向かっていった。
震災発生後、全国に大量に導入された自動車が「乗合自動車」(バス)として爆発的に広まっていった。
勿論石城郡内も例外ではなく競合する区間に乗合自動車が運行され、好間軌道の乗客を奪っていったのだ。
対する好間軌道も軌道の一層の経営の効率化の推進と共に、自らも「自動車部」を昭和2(1927)年に設立し乗合自動車の運行を始めた。
昭和3(1928)年に軌道の収支は赤字に転落し、昭和4(1929)年には軌道単体の経営は限界に達した。
自動車部は順調な運行を続けていたが、自動車部門の黒字で軌道経営の赤字を賄いきれなくなった好間軌道株式会社は
好間軌道の運転休止を決定する。
昭和5(1930)年初頭に軌道の運行は休止され、軌道施設や自動客車1式は同年2月末までに売却されたと記録されている。
僅か9年間の好間軌道の歴史は幕を閉じた。
その後、好間軌道株式会社は軌道の廃止後も同社名のまま乗合自動車運行の業務を続け、単年度黒字を計上し続けたと言う。
同社は主に平駅前〜好間村〜三阪村(現
戦時中の昭和18(1943)年、国の施策により石城郡内の乗合自動車会社の統合が進められ
統合新会社である「常磐交通自動車株式会社」(現 常磐交通株式会社)に吸収され
25年に渡る好間軌道株式会社の歴史は幕を閉じた。
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