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小高銀砂軌道
〜砂を運ぶ軌道〜
(昭和20年代 航空写真を元に米軍が作成した地図より抜粋)
小高銀砂軌道の基礎知識
開設 不明(大正末期〜昭和初期頃?)
廃止 昭和45(1970)もしくは昭和46(1971)年頃:(地元の方のお話による)
距離 不明
軌間 762mm(地図記載の2フィート6インチより推測)
そもそも銀砂とは?
「小高銀砂軌道」と称される
そもそも「銀砂」という言葉自体が聞き慣れないものである。
銀砂と言う言葉を調べる事から探訪が始まる。
銀砂=珪砂
銀砂と言う言葉を調べると「珪砂(けいさ)」と言う言葉に突き当たった。
珪砂という言葉もあまり耳にしない言葉だが、こちらの名前の方が一般的に通じるようである。
珪砂:珪砂は花崗岩あるいは珪岩と呼ばれる岩が、雨風、あるいは振動によって細かくなり、 粒状に変化したもの。
珪砂の拡大画像:透明な物が石英。石英が円形に磨かれているものほど質が良いとされる
珪砂は石英を含み、珪砂にソーダ灰、石灰、ガラス屑等を混ぜ合わせ1500℃の高温でこれらを融解して板ガラスや各種ガラス製品にするのである。
極めて良く円形に研磨された石英を多く含んでいるのが特徴であり、現在でも工業用、研究用としてその需要は高い。
珪砂とその歴史
福島県の浜通りは南の磐城地区(常磐炭田)においては石炭を豊富に産出していた。
四ツ倉地区の八茎鉱山では石灰石や金、銀、銅も産出していた。
双葉、浪江、原町地区ではこれら鉱石や石炭の組織だった産出は行なわれていなかったが、豊富な森林資源を用いて林業が盛んであった。
これら豊富な自然資源に恵まれた浜通り地区では、産出地からの輸送に鉄道(軌道)が明治〜昭和中期にかけて使われていたのは良く知られた所である。
小高地区では、大正3(1914)年の「合資会社 小高銀砂工場」設立に伴い、組織的な珪砂の産出、販売が行なわれるようになった。
昭和初期ごろの珪砂の需要の高まりと珪砂粉末精製の機械化に伴う産出(生産)量の増大に伴い(下記)、
軌道による輸送が計画され「小高銀砂軌道」の敷設を見たのである。
工場設立当初はガラス原料として使用されていた「相馬珪砂」であるが、
昭和に入り商工省(当時)が相馬珪砂を「セメント試験用標準砂」として指定され全国的に その名を知られるようになった。
戦時中は鋳物用珪砂として、海軍横須賀工蔽や日立製作所等に納入された。
また、ゴーグルや軍用車両、戦闘機の風防ガラスの原料としても用いられたという。
戦後は平和産業に大いに貢献し、現在でもガラス原料はもとより、セメント原料、鋳物用砂、セメント試験用砂など幅広く使用されている。
軌道の遺構
昭和初期〜昭和中期にかけて存在した小高銀砂軌道であるが、何故かその存在は知られていない。
私企業が敷設し、国鉄駅に接続していなかった軌道である為か、地図に記載されているのはこのページ上部にある米軍の航空写真に基く地図のみである。
(相互リンク「街道Web」掲示板より)
廃止後の遺構も大変に少なく、終点付近の道床跡と橋脚跡、始点付近に僅かに痕跡が残るのみである。
始点〜終点付近の敷設ルートは上記の地図から推測せざるを得ない。
軌道のルートを推測してみる(推測中)
参考資料
JTBキャンブック「全国鉱山鉄道」巻末資料
相互リンク「街道Web」掲示板:主宰 「TUKA」氏のコメント並びに「やまちゃん」氏の現地探索
(両氏に感謝申し上げます)
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