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〜湊の衰退、それは避けられない運命だったのか〜

【玉島港町の分割】
元禄6年(1693)10月、松山藩三代藩主水谷勝美の不慮の死後、世継ぎがないために
水谷家は断絶した。翌元禄7年2月赤穂藩家老大石良雄が収城使として松山城を接収し、
引続いて元禄8年8月まで松山城を守った。元禄8年(1695)9月、新しく松山藩主として
安藤重博が転封された。このとき、玉島周辺における松山領は、玉島村の一部と柏島村
の一部とに削減され、その他はすべて幕府の直轄地となった。

その後、元禄15年(1702)幕府の直轄地をさいて丹波国亀山藩領とし、これ以降、玉島
周辺地域は天領・松山領・亀山領と三藩による分割支配地となり、明治維新までの
約160年間にわたって続くこととなった。

その結果、玉島港及び港町は「三ヶ領軒並入組」として運営されることとなった。
天領(倉敷代官支配)阿賀崎村のうち、新町・南町・仲買町
松山領(安藤氏→石川氏→板倉氏)玉島村のうち、中島町・矢出町・団平町・土手町
亀山領(青山氏→松平氏)玉島村のうち、本町・通町・山下町

三ヶ領に分割されてからは対立意識も強くなり、
港全体の統一がとりにくくなり、何かと疑惑や争い
ごとが発生しやすくなったようである。

図を見ても判るように、湊町周辺はまさに虫食いの
ような状態で複雑な支配関係が形成されたようである。
幕府は新町などの貿易拠点地域を押さえ、そこから
あがる運上金などの莫大な利権を吸い上げていたことが
うかがえる。
特に新町問屋は天領という立場を背景にして、松山・亀山領のいわゆる東浜問屋に威圧を加え、
不正な取引きを摘発したり 、また、時には株仲間からの追放をするなど、西浜の優位性を誇張してきた。
また、町人の間でもいつしか西浜と東浜とは対立するようになり、港内の川ざらえや湊ざらえ
工事、水門工事などの計画・諸経費負担の調整など問題がむつかしかったばかりでなく、三藩の
許可がそれぞれに必要ということで、これの連絡調整が大へん複雑面倒などと、支障が多かった。

【玉島港衰微の原因】
いくつかの原因が考えられる。その主なものを取り上げてみると、およそ次のようになる。
  1.  港に土砂が流れこんできて浅くなったこと。
    鉄の需用が増大して、吉備高原での砂鉄採集が盛になって、その「かんな流し」による
    多量の土砂の流下と、さらに花崗岩地帯のためにはげしい風化作用ということが、
    洪水のたびに、おびただしい土砂が下流に押し流され、高梁川の河口周辺に堆積し、
    三角州を作り沿岸を埋めていった。
    また、里見川・道口川などの土砂が、直接玉島港に流れこんで、港の底を浅くし、千石船の
    入港を困難にさせた。
    文化6年(1809)松山藩の記録によると、『御蔵米を積む大船はおよそ50町〈約5Km〉の沖合で
    船積みしなければならぬ程に港が浅くなった』と伝えている。
    その上、3藩によって港が分割支配されたことによって、港の統一的な発展が阻害されただけ
    でなく、港全体の問題である水門工事や港の浚渫(しゅんせつ)などの管理運営について、
    いちいち3藩の各領主の許可をもらわねばならず、さらには多額の費用の分担調整などと
    難問が多く、港の浚渫などは十分に行われていない。
  2.  繰綿(くりわた)の品質が次第に悪くなり信用をおとした。
    農民が繰綿に水を入れて掛け目を増やし、消費地の信用をおとした。このため綿問屋の
    取り引高が減少した。1俵で200〜300匁目〈約1Kg〉程度も減っている有様で、問屋は
    口銭の中からつぐなっていた。明和・安永のころ(1750頃)から水綿(みずわた)を
    取り締ったが、なかなかあとをたたなかったという。
  3.  油物の取引きが統制されて売買ができなくなったこと。
    宝暦以降(1751〜)幕府は全国・・・・特に西日本の菜種子、綿実などの搾油原料を、
    摂津・河内・和泉の問屋に集荷させ、他国における取引を停止した。
    このため、それまで九州の油物と備中の綿との交換売買を主としていた玉島港は
    大きな痛手を受けることとなった。九州の油物を積んだ船は大阪に直行して売渡した。
    そして繰綿は大阪、播磨の室津・高砂、讃岐の高松などから仕入れるようになった。
    こうなると、瀬戸内の廻船航路から7〜8里(30Km)も奥まった玉島港へわざわざ入港する
    他国船が少なくなってきた。
  4.  付近に港ができて競争がはげしくなったこと。
    18世紀の終わりごろには、備前児島郡の藤戸・天城(あまき)の両港が新しくできて、
    早島を中心とする綿の重要な生産地をこれらの港にうばわれた。
    また、19世紀の初めごろからは、連島西之浦、浅口郡寄島(よりしま)の港も発達して、
    大いに利用されるようになった。奥まった港の不便さに加えて、港が浅くなった玉島港
    としては、全く手の打ちようがなくなった。

新町問屋街
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