このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



〜庶民の楽しみ・港祭りの原点をみる〜
【天神祭りの由来】
玉島港が千石船でにぎわい、港町も人家が密集して繁栄した江戸時代も中頃以降のことと
考えられる。今は昔、玉島港町に美濃部(みのべ)という寺子屋師匠がいて、「勉学に勤(いそ)
しむ者は菅原道真を文学の神、能筆の聖(ひじり)として祀らねばならない」と言って、ある夏の
夜、道真が太宰府へ流された日を偲んで、沖合はるかに一舟を漕ぎ出して、船中ひそかに祭事
をとりおこなったことに始まるという。

この事実が基となって、港の回船問屋を中心として盛大な祭りに発展し、明治時代には大阪の
天神祭と並んで、西日本でも有名な祭りであったといわれている。かつては、毎年旧暦6月23日
(新暦7月下旬〜8月上旬)羽黒神社に合祀されている和霊宮で「宵宮祭」、翌日に菅原宮の
「神幸式・海上渡御」が行われる習わしだった。宵宮祭は和霊宮で、『 和霊様 が愛する妻子と
共に「かや」の中で非業の最後を遂げた』事を偲んでひそかに行われる。地元玉島では、かつて
この夜「かや」をつらずに寝るという風習があったという。

また、天神祭当日は羽黒山周辺の町内は人で埋まり、身動きも出来ない人の波で、海に落ちる
人も出る程だったという。花火が打ち上げられるころ、天神祭みこしの海上渡御が始まる。御座船
は帆船二隻を横に並べて、みこしを乗せる。注連(しめなわ)縄を張りめぐらし幔幕を張り、赤ふん
どし姿の船子が乗りこんで、掛け声も勇ましく漕ぎ出して行く。かつては港内をくまなく三周して
帰っていたが、、いつしか納涼船に乗せて一周するだけとなり、今ではみこしを自動車に乗せて、
陸上渡御と変わってしまった。戦後復活した「玉島天神祭」の名称も昭和30年代後半ごろから
「玉島港祭」となり、最近では「玉島祭」と変化して、時の大きな流れを感じさせる。

【古老が語る大正末期〜昭和の初期の祭り風景】
夕方近くなると、玉谷山から打ち上げられる花火にさそわれるように、円乗院道を浴衣がけの老若
男女が陸続として下りて来て、通町へ土手町へと流れて行く。通町では、東から来た人たちとで
人波が次第に厚くなって、土手町へと渦巻いて行く。今のように港橋は無く、中島・矢出町の海岸
道路も勿論無かったころ。土手町では、高瀬通の土手道を北からやって来た人たちでいよいよ
大混雑。新庄屋(旧パチンコ玉島会館跡・現倉庫)前の荷揚場の僅かな広場(現港橋派出所付近
で道路と化した)も露店でふさがり、身動きもならない程の雑踏となり、そのために大砲堂(現高橋
化粧品店)と新庄屋との間の桶門水路に架けられた幅五メートル程の橋(今は無い、南田肉店の
支店がある付近)から、はじき出された人が海に転落することも珍しくない有様であった。

そして人の流れは、薄井菓子店(現いぎファッション店)の角で二つに分かれ、一つは羽黒山の
東雁木(石段)から山上まで続いて境内を人の波で埋めつくし、もう一つは左折して常盤町へ流れ
て行き、さらに新町まで延びる。ここで又、阿賀崎・柏島方面からの人波でひしめき合う。とにかく
海に面した道路は人の波で大混雑し、その混雑ぶりは現在の比ではない。

一方、未だ舗装もされていない時代の道路は、アセチレンガスの明かりに照らし出された中で、
もうもうと砂埃をあげ、その埃の中で、冷やし飴が売られ、綿菓子が作られ、切り売りの西瓜が並
べられたり、おもちゃ店があったりと、所狭しと屋台が連なって、子供達の購買欲をかき立てる。
御座船の発着所は松之江旅館の前・東浜方雁木である。
(今は無いが、百万両及び港橋北詰付近にあった)御座船は
帆船を横に二隻並べてつなぎ合わせて床を造り、四隅に青竹を
立ててしめ縄が張り巡らされ、梅鉢を打った幔幕で飾られた。
引船は小型漁船が七〜八隻、八丁櫓を揃えて、赤ふんどしに
黄鉢巻をしめた若者が掛け声も勇ましく漕ぎ出す。
最初の一巡は沙美沖近くまで漕ぎ出し、次いで二巡めは八幡
灯台付近まで、最後の三巡めは現玉島大橋付近までと港内を
くまなく三巡航するのが慣わしであった。
御座船に陪乗を許されたのは、神官、楽人をはじめ、氏子総代、天神講員で、いずれも衣冠束帯
又は礼服着用で折り目正しく、厳粛であることがかたく守られていた。由緒ある海上渡御も、
昭和三十年代後半には航海法の規制を受けて、止むなく陸上渡御となり、永い伝統的神事も
姿を消すこととなった。


矢出町・西爽亭
備中松山藩に仕えた柚木家(現西爽亭)は藩主が玉島領内を見回る際の宿泊所であったが、幕末に大きな役割を果たすことになる。


     


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