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外環道埼玉区間がもたらしたもの
〜外環道レポート その1

放射方向の道路に対し、環状方向の道路整備が決定的に遅れているとされている首都圏。そのなかで高速自動車国道として唯一整備が進む東京外環自動車道(大泉IC・JCT−三郷JCT)については、これまでも「習志野原の掲示板」などで再三再四取り上げており、「習志野原」と言いつつも隠れたテーマとなっています。
本項では、この外環道のこれまで、そして進捗についてレポートして行きたいと思います。。

和光IC入口

特記なき写真は2005年7月および8月撮影


東京外環自動車道、通称「外環道」がはじめて開通したのは1992年11月27日のことです。
それまで首都圏の数ある道路整備の一つとして、「外かん」(東京外郭環状自動車道)という馴染み難い名前の道路として地図上の計画線として時折私たちの目に触れる程度でしたが、それから10余年たち、今や「外環」は首都圏の道路を語る上で外すことが出来ない存在になりました。

開通から13年弱という時間がたち、関越道〜常磐道にかけての埼玉県南部にあるこの環状高速はあって当然という感じであり、大泉や川口西、そして三郷での渋滞にドライバーが苛立つというのも当たり前の光景です。

しかし、今でこそ輸送力不足を云々されるほどになり、外環に対する「不満」も多々見られますが、外環開通前のことを知る身としては、それでもまだこの道路の威力は色褪せていないと感じるのです。
そう、未だにそう感じるほど、この道路の開通は奇跡であり、その効果は「革命」だったのです。

川口JCT方向(川口東IC付近)(2003年8月撮影)

●外環開通前夜
私がクルマを購入した1991年当時、外環というものはありませんでした。当時市川市に住んでいましたが、当時の道路事情をひもとけば、市川からとなると、房総半島や常磐道方面を除けば、都心を突っ切るか、環七やR16で迂回するしか策が無かったのです。
そのため、片側2車線とはいえ平面交差が基本の一般道路に過ぎない両道路は非常に混みあっており、環七だと主要放射道路の間を移動するだけで数十分から1時間以上という時間を要していたのです。

環七からR16の間にも地方主要道レベルの道路はありましたが、例えば松戸から八潮を経て草加に抜ける県道54号線や、草加から浦和に抜ける県道34号線といった道路は片側1車線で、三郷市戸ヶ崎といった重要な交差点でも右折車線がないと言うような状態でした。
クルマを購入して間が無いある日、草加に住む知人のところまでその県道54号線を使ったのですが、松戸まででいい加減に時間がかかったところに、そこから草加市の旧国道4号線にぶつかる谷塚までは戸ヶ崎、柳之宮と難渋してたっぷり2時間かかったときにはさすがに頭を抱えました。
かといって帰路はさすがに首都高にしたんですが、逆に西に出て川口線の新郷から中央環状線経由湾岸線の千鳥町まで、600円(当時)の価値はあるとはいえ、堀切〜小菅の輻輳区間に中央環状線の渋滞と、これもしんどかったことは確かです。
この区間、公共交通機関を利用といっても、一筋縄でいかないわけで、最寄の本八幡までバスで出て、そこから秋葉原に出て日比谷線から東武伊勢崎線となるわけで、どうにもこうにもならなかったのです。

●外環開通の日
92年11月27日、開通は夕方でしたが、「外環」とはいかなる道路か、当夜市川からわざわざ出かけています。都心を抜けてR254で和光へ向かうと、川越方面から外環和光ICへ曲がる交差点は結構な車列となっていました。
朝霞のほうまで進んでから引き返す形でR254を戻り和光ICから外環道へ。斜張橋の埼魂大橋で荒川を越えると三郷まで防音壁に囲まれたこれまでに無いスタイルの高速道路が印象的でした。入口の混雑はどうもドライバー、料金所両方の不慣れから来るもののようで、外環道本線はきわめて順調、そのまま三郷JCTで首都高に入り、中央環状線経由で湾岸線千鳥町に抜けています。

その後東京西郊に通う機会を得て、外環をまずまずの頻度で使うことになりましたが、外環三郷西から松戸までの間、従来からの下道を何箇所か曲がりながら行く行程が面倒くさく、かつ滞りがちで、しかも松戸から市川の間も混みがちだったので、時間帯によっては首都高で都心を縦貫したほうが早かったのも事実です。

和光IC入口付近

●当時の外環
和光−三郷開業時の外環は今と若干様相を異にしていました。
まず美女木JCTが無かったこと。首都高池袋線は戸田南までの開通で、美女木JCTの躯体は出来上がってましたが、未開通でした。美女木JCTの開通は93年10月。その際は埼玉県警がJCT内の信号交差点の設置に難色を示したため、戸田南方面から外環外回りへの通行は出来ず、戸田南で降りて、R17〜R298を美女木八幡交差点を経由して戸田東ICから入るように誘導されていました。これが解消したのは埼玉大宮線開通でJCT内の信号交差点が実現した98年5月を待つことになります。
また1994年3月30日の大泉開通まで和光北ICもありませんでした。そして最終の和光ICですが、三郷方向への外回りは今と同じスタイルでしたが、内回りはかなり違います。まず今の美女木JCT内で車線が1車線に絞られ、そのまま埼魂大橋へ。そして今の和光出口は池袋、環八方面の出口として存在し、関越道へ乗り継ぐR254下り方面はそのまま直進していたのです。
どこへ行っていたかというと、R254をくぐった先でUターンし、今の大泉方面からの和光出口に重なるような感じで出てきて、R254へ左折するスタイルでした。これは外環からR254への流出量を極大化するための対策でしたが、大泉開通を前に現行のスタイルに改まりましたが、大泉開通までのわずかな間、全流動が今のように和光IC入口の交差点を右折すると言う苦しい運用を強いられていました。

埼魂大橋から美女木JCT方向を臨む(和光北IC付近)和光北IC、新倉PA分岐(2003年8月撮影)

外環に併設されているR298も今とだいぶ違いました。
松ノ木島までの区間は厳密にはR298では無いですが、区画整理ができておらず迂回部分がありましたし、埼魂大橋は上流側のみで対面通行区間が新大宮BPと交差する美女木八幡交差点まで続きました。
旧国道4号線から先は併設の綾瀬川導水路の建設が遅れたため、産業道路から八潮八条までの区間は当初R298は無く、開通後もかなりの間、八潮八条まで対面通行でした。
三郷西を出るとR298は谷口交差点でおしまい、左折してすぐの三郷図書館で右折するか、もう少し先にいって右折するかして並行する二本の下道で松戸を目指しました。
松戸方向の場合は栄五丁目から江戸川堤防横の道路に出て、旧葛飾橋に出るのが最速だったのですが、生活道路を走るのは気が引けますが、それしかなかったのも事実でした。

●外環の効果
まさに革命的、としか言いようがありません。
公式データとして、首都国道工事事務所が出した資料の数字を見てみましょう。

区間開通前開通後短縮時間短縮率
草加市役所−浦和市役所85分39分▲46分▲54.1%
三郷市役所−和光市役所105分32分▲73分▲69.5%
岩槻IC−柏IC73分30分▲43分▲58.9%
所沢IC−三郷IC122分38分▲84分▲68.8%

※浦和市役所=現さいたま市役所

所要時間の短縮は2割や3割と言ったレベルではありません。6割から7割減らして開通前の3割や4割で走れるようになったと言うのですからすさまじい効果です。単に一般道路を高速に乗せ替えただけでなく、そもそも環状方向の一般道路すら満足に無かったことがこのような目覚しい効果を生んだと言えます。

この効果はこれまで環状方向の流動を一手に支えてきた環七やR16の信頼性回復にも大きく寄与していることは言うまでもなく、並行する地方主要道レベルから広域的に並行する幹線道路まで、大きな恩恵を与えています。

また、放射方向の交通にしても、開通当時は和光ICからR254を介して所沢ICまで下道だったとはいえ、これまで都心側で高速道路と一切接続していなかった関越道に関しては、所沢ICが「表玄関」になったことで分散された練馬IC付近での交通量削減が目覚しく、特に逃げようが無かった練馬ICから、関越道とつながる目白通りが環八(笹目通り)と交差する谷原交差点までの区間が外環経由で回避可能になったことから、都心から関越道方面の所要時間が大幅に減少しています。

同時期に関越道の6車線化が進捗した(藤岡JCTまでの完成は1994年3月)ことも大きいのですが、この時代にスキーシーズンに利用していた感想として、外環開通を節目としてスキー旅行のスタイルが変わっています。
当時、市川から都心や環七を抜けて練馬から関越に向かうと、金曜の夜は20時くらいに家を出て、高坂SAに日輔が変わる頃到着と言うのが通例で、そのまま関越トンネルを越えて新潟県内のスキー場に着くのは未明でした。宿のほうもそうした利用形態に対応して、深夜に入り、朝食が付く「半泊」という料金体系がありましたし、スキー場も仮眠室を用意してそういうスキーヤーを取り込んでいました。

これが外環開通に伴い、都心側での所要時間が大幅に減少したことにより、到着時間が大幅に早まりました。これは「半泊」を「1泊」にするのではなく、出発を未明にして朝方到着と言うパターンへの変化となったことを記憶しています。ちなみに開通前は休前日は深夜でも混雑が激しく、未明出発だと下手をしたら午前は棒に振りかねないくらい混んでいたのです。
まあスキー、スノボブームが下火になった現在では想像も付かない事態でしょうが。

●大泉開通など
1994年3月30日に和光IC−大泉IC間が開通しました。
大泉ICでは目白通りに接続するとともに、関越道に直結しました。関越道には下りだけ大泉ICが設けられましたが、三郷や東名と東名阪の名古屋、名神と中国、近畿道の吹田と同様、ICなのかJCTなのかはっきりしない形態です。外環三郷西IC同様ジャンクション側と入路側の料金所が兼用になっていました。
この日も実は利用しており、大泉では外環から出て関越の入路を試し、そして所沢で引き返して関越〜外環のジャンクションも試しました。

和光ICから南、都県境を行く区間は半地下もしくはトンネル構造で、地上にはサービス道路があるものの、R298の扱いにはなっていませんし、大泉まで真っ直ぐ抜けられないようになっています。本線部の地上部は西大和団地として活用されており、その区間を行く限りでは地下に高速道路が走っているとは思えない光景です。

和光IC南側の本線地上部の光景(2003年8月撮影)




その2・外環道最近の話題に続く

その3・外環道千葉県内先行区間の近況に続く

その4・外環道千葉県内先行整備の状況に続く

その5・外環、いよいよ市川で開通に続く


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