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中国(杭州・紹興・上海)−15 府山公園編
大禹陵の次は府山公園である。府山公園は紹興駅に比較的近いところにある。時間の制約があるときは、郊外に先に行き、市街地を後回しにすることにしている。時間の調整がしやすいからだ。
残念ながら府山公園では時間が取れず、見学したのは下の越王台と越王殿の2つのみである。
越王台 越王殿
越王殿の内部には大きな絵が飾られている。これは、ある故事を描いたものだ。
春秋時代、今の 江蘇省南部 に国を建てていた呉と浙江省北部を本拠としていた越とが戦いを繰り返していた。
西暦 呉 越 BC496 ×闔閭(こうりょ)戦死 ○勾践(こうせん) − 闔閭の子、夫差(ふさ)は父の仇を忘れないため、毎晩薪の上に臥して痛みをこらえた。 − BC493 ○夫差 ×勾践 会稽山 にて降伏。 − − 勾践は、部屋に苦い胆をつるし、毎日それを嘗めて、会稽山の恥を忘れないように努めた。
臥薪嘗胆 屈辱に耐える勾践
怨念が滲み出ている。
西暦 呉 越 BC473 ×夫差 ○勾践 会稽の恥を雪ぐ。
復国雪恥 晴れやかな勾践
誇らしげである。
23年間に渡る戦いであった。呉はこのときに滅亡している。越はBC334年に楚に滅ぼされており、楚はBC223年に秦に滅ばされている。楚を破った秦王政は天下を統一後、始皇帝を名乗った。
「会稽の恥」は「以前に受けたひどい恥辱」として広辞苑にも載っている。平家物語では、「会稽」が「仇討・復讐」の意味で用いられているそうだ。
「臥薪嘗胆」は「仇をはらそうと長い間苦心、苦労を重ねること。転じて、将来の成功を期して長い間辛苦艱難すること。」とされている。日本では、日清戦争後の三国干渉をやむなく受け入れた後、臥薪嘗胆が国家的なスローガンとなり、ロシア復讐の世論が高まった。現代の日本では、希望大学に受からずに浪人することになった予備校生に対してこの言葉が用いられることが多い。
府山公園から次の目的地である魯迅故居まで歩いていくことにした。下の写真はその途中に撮ったものである。紹興は水の都として名高く、運河が張り巡らされている。
紹興の路地 紹興の運河
白い壁がなんともいえない。
秋瑾 紀念碑
秋瑾故居には行く時間がなかった。
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