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イタリア9 ヴェネツィアの街並編
我々が宿泊したホテルは LONDRA PALACE という。 ウェブトラベル に紹介していただいたのだ。到着した晩は真っ暗だったのでよく分からなかったのだが、翌朝カーテンを開けたところ、海を挟んでサン・ジョルジョ・マッジョーレ島が見えた。窓から海が見えるというのは気分がいいものである。
窓の下の通りには、立派な騎馬像が建っていた。ホテルのフロントに尋ねてみると、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とのことであった。確か世界史の授業で勉強したはず、と思ったので調べてみたところ、なんとイタリアの国王であった。
1820年に生まれたヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は1849年にサルディニアの王位に就く。当時イタリアは分裂しており、1859年にイタリア統一戦争が勃発。1861年2月にイタリア王国が樹立され、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が王位に就いた。この時点でヴェネツィアおよびローマ教皇領が範囲外だったものの、1966年にヴェネツィアを併合、1870年にローマ教皇領を占拠してイタリア統一はほぼ完成した。
右下の写真は、海の方から撮った銅像である。バックに写っているのがLONDRA PALACEだ。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の視線の方に5分ほど歩けば サンマルコ広場 である。
部屋からの眺望 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
ホテルから、サン・マルコ広場を抜けて リアルト橋方面 に歩いていくと、狭い路地に出る。ヴェネツィア島内は自動車を禁止されているが、この路地の狭さを見れば、そもそも走るのが無理だということがお分かりいただけると思う。中世にも馬車は有ったと思うのだが、すぐに運河にぶつかってしまうので行き止まりである。移動手段として徒歩と船しか想定されていなかったのであろう。建物が高いので見通しが悪く、街並みはさながら迷路のようだ。
路地
下の写真は、運河に掛かる橋の上から撮ったものだ。くすんだ壁が、時の流れを感じさせる。
運河に掛かる橋の上から
パラッツォ・コンタリーニ・ディ・ボヴォロはヴェネツィアを代表する建築物とのことだが、残念ながら螺旋階段を登ることはできない。15世紀の建築ということで老朽化が進んでいるのであろう。こちらの ページ で最上階からの眺望を確認することができるが、鐘楼の方面の写真が掲載されている。 カナル・グランデ は見えないのだろうか。
パラッツォ・コンタリーニ・ディ・ボヴォロ
マニン広場はパラッツォ・コンタリーニ・ディ・ボヴォロのそばにある。マニンという名前は聞き覚えがなかった。そのはずで、山川出版社の世界史用語集には載っていない。調べてみたところ、ダニエーレ・マニンという人のようだ。
WIKIPEDIA によると、1804年にヴェネツィアで生まれている。当時支配していたオーストリアに対する反政府運動により1848年1月に逮捕されたところ、これに市民が反抗したことにより、3月17日に釈放された。オーストリアが3月26日に撤退すると、サン・マルコ共和国(またはヴェネツィア共和国、ヴェネツィア臨時政府)の大統領に就任。いったん辞任するも、オーストリアが再占領すべく侵攻してきたので、これに対抗すべく翌1849年に再任。1849年よりオーストリアの包囲に対して防御戦を指揮したものの、1849年8月24日に降伏。マニンはパリに流刑となった。1857年死去。
マニン広場
マッツィーニの銅像は、リアルト橋のそばにあった。マッツィーニは1805年、ジェノヴァで生まれた。青年イタリア党を指揮し、1849年2月、ローマ共和国を樹立。しかし、1849年7月にフランスのルイ・ナポレオンに降伏。ローマ共和国は短命に終わった。1872年死去。
マッツィーニ
ヴェネツィアの銅像は、革命の闘士達であった。
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